Japan Regional Explorerトップ > 地域文・九州沖縄地方
五島・福江島をめぐる
2005年8月、広島・長崎フィールドワーク(地域文「きょうちくとうの夏」を参照)の行程の中で、長崎県五島列島・福江島を訪れました。隠れキリシタンの里として知られる五島には、厚い信仰を受け継いだ多くの教会が開かれています。雄大な自然景観の中に浸りながら、福江島の教会群をめぐってまいりました。 |
堂崎天主堂 (五島市奥浦町、2005.8.8撮影) |
鬼岳を望む(鐙瀬溶岩海岸より) (五島市野々切町、2005.8.8撮影) |
訪問者カウンタ ページ設置:2006年4月30日 |
||
|
2005年8月8日、福岡から空路五島福江空港に降り立ったとき、福江島はうすい灰色の雲によって夏の輝きを隠していました。やわらかに水滴が頬をぬらす天候は、長崎市から西へおよそ100キロメートル離れ、海に囲まれた島という地勢を反映したものなのではないかと思われました。空港近くのレンタカー会社で自動車を借りて、福江島一周へと出発しました。翌日の長崎平和祈念式典に出席しようとしておりましたので、夕方までには福江港へ戻って来なければなりませんでした。小さな島とはいえ、リアス式海岸の変化に富んだ海岸線を含む福江島の周囲は約320キロメートルもあります。自然、駆け足の訪問とならざるを得ませんでした。レンタカーの営業所で島内の主要道路の説明を受けた際、戸伎から岐宿へ抜ける県道は道幅が狭く、通行は薦められないとの情報を得ていましたので、まずは福江市街地から、その県道の狭隘区間の手前に位置している堂崎教会へ向かうことにしました。 五島は、「隠れキリシタンの里」と呼ばれます。福江島を含む五島列島全体の人口約8万人のうち、15%ほどがカトリック信者であるといわれます。その信仰の広がりを象徴しているかのように、五島には50もの教会が営まれており、それぞれの地域における祈りの場となっています。豊臣秀吉の禁教令に始まり、江戸期鎖国以降のキリスト教弾圧の歴史は、さまざまな歴史書や著作などが伝えているとおりです。その伝来は、1566(永禄9)年とされます。当初は領主の厚い保護のもと布教活動が展開され、五島にキリスト教信仰が根付く基礎が形成されました。秀吉による禁教令から10年後の1597(慶長2)年に、長崎ではりつけにされた26聖人の中には、伝道師を目指していた五島出身の19歳の青年・パウロ五島も含まれていました。現在の五島クリスチャンの大半は、江戸期に九州本土・西彼杵郡および外海地方から開拓農民として集団移住してきた隠れキリシタンをその祖としているとされます。禁教時代の末期にはキリスト教信者に対し、数百人の信者が殉教したといわれるほどの激しい迫害が行われました。それは後に「五島崩れ」と呼ばれます。明治に入り禁教令が解除されると、雪解けの大地にいっせいに色とりどりの花が開くように、五島には多くの教会が設立されていきました。これから向かおうとしている堂崎教会は、禁教令解除後最初につくられた教会として、五島におけるキリシタン復活の拠点となった由緒を持ちます。福江市街地からゆるやかな大地を進んだ県道は次第に山並みの中に吸い込まれ、奥深く刻まれた奥浦湾の入り江に向かって進んでいきます。戸伎湾と奥浦湾とをわけるわずかな陸地に入り、県道から分岐した市道をさらに北へ。海沿いに進みますと、砂嘴状になった岬の先端近く、久賀島を対岸に望む海岸に面して、赤煉瓦の堂々たる聖堂が屹立していました。緑濃い山々の裾に鏡のように穏やかな海面が静かにたゆたい、島々との間をゆったりとうずめる水は大海原へと軽やかにつながって、大陸へと続く荒海へとその表情を変えていきます。
堂崎教会の設立は、1879(明治12)年。フランス人宣教師マルマン神父により開かれました。赤煉瓦造、ゴシック様式の現在の天主堂は、後任のペルー神父により1908(明治41)年に建てられたもので、本格的な洋式建築物としては五島初のものであったのだそうです。資材の一部は遠くイタリアから運ばれたといいます。堂内を見学させていただきました。内面はゆるやかなカーブやピンポイントに設置されアクセントとしての効果も繊細なステンドグラスによって構成された幾何学的な均衡が美しい印象です。シックで飾らない聖堂のたたずまいは、素朴ながらも堅固にその信仰を受け継いできた五島クリスチャンの姿と重なるようにも思われました。概観には日本瓦が使用されている箇所があり、洋風の建物ながらも周囲の農村景観に溶け込む姿が輝かしくも映りました。依然霧雨のような水滴が落ちる曇り空の下重厚な雰囲気を醸すその聖堂は、夏空の照らす中で見ることができたとすれば、光に満ちた島のとびきりの風景にあっていっそうの存在感を示していたに違いありません。 福江島は、多様な自然景観に彩られる島、その中に豊かな集落・漁村景観などが重なる島でした。福江の市街地を再び北から南へ縦断し、石田城跡の壕を概観しながら、島のシンボル・鬼岳へ。地質学的には鬼岳を含めた火山の集まり「鬼岳火山群(鬼岳のほか、火岳、城岳、箕岳、臼岳の5つの火山よりなる)」として扱われます。鬼岳火山群は、今から300万年前の噴火により楯を伏せたような形状のなだらかな楯状火山(アスピーテ)が形成された後、その上に5万年前の第二次噴火によって臼のような形をした臼状火山(ホマーテ)が重なり合って生まれました。 途上でこの鬼岳火山群から噴出された溶岩によって形づくられた「鐙瀬(あぶんぜ)溶岩海岸」から仰ぎ見た鬼岳は、緑の草原に覆われた特徴的な山容と、裾を覆っている豊かな森との姿がたいへんに気持ちのよい容貌を見せていました。鬼岳頂上の鬼岳園地からは、福江の市街地を一望の下に見渡すことができました。西方に目をやれば、先ほど着陸した空港の滑走路も見えています。「福江」の地名はもともと「深江」と呼ばれていたものを佳字に置き換えたものであるのだそうです。目の前に展開する福江の町を見通しますと、そこが「深い入り江」という意味であろう「深江」の名の示すとおりの地勢であることが実感できました。福江島の東側、本土との間に向いた湾内にあり、蠑螺(さざえ)島や屋根尾島などの島々によって外界から守られた立地は、古来より五島の政治経済の中心として栄えてきた福江−深江−の中心性を約束してきた最大の要因の1つであったことでしょう。やわらかな海に向かい、緩やかな後背地に市街地を広げる福江の町は鬼岳のなめらかな緑の草原の彼方にあって輝くいのちの海のように感じられました。
レンタカーは鬼岳南の県道を西し、富江湾の輝く海を回りながら国道に行き着き、さらに西へと進みます。次第に暗雲は晴れて夏のまばゆい日差しがあふれるようになってきました。海は瑠璃色にきらめいて、山々の緑もエメラルド色にその光量を増してきました。岬の先端に白亜の灯台が建つ絶景で知られる大瀬崎に立った時、そのひかりの激しさは最高潮に達しました。海のかがやき、崖のかがやき、緑のかがやき、そのすべてが夏の猛々しい日輪の閃光によって滾るようなエネルギーを与えられて、彼方にかすむ水平線のその先まで一点のかげりもありませんでした。福江島の西にあって大きく湾入した玉之浦湾を守るように続く半島は切り立った山々あり、溺れ谷のつくる波静かな入り江ありと変化に富んだ景観が続いていきます。「井持浦ルルド」で知られる井持浦教会もここに佇みます。さらに玉之浦へと続く半島の付け根付近の原野には、「立谷教会跡地」との説明が付された教会の案内表示が立てられていました。立谷(たちや)教会は、1882年〜87(明治15〜20)年頃に竣工した木造の教会で、往時はわが国最古クラスの木造教会建築であったのだそうです。五島における禁教令解除後草創期の教会として親しまれた立谷教会は、地域の高齢化・過疎化のために1985年には廃堂となり、1987年の台風被害を受け倒壊、2000年に建物が完全に解体されたのだそうです。立谷教会跡の案内表示板に併記されている「無原罪の聖母像」とは、かつて立谷教会内にあった聖母像について、井持浦教会に安置していたものを、立谷教会跡地が整備されたのを機に再びあるべき場所に帰したものであるとのことでした。 夏の大空の力を得た五島の大地の見せてくれる、とびきりのたおやかさと鮮烈さとを車窓越しに楽しみながら、福江島のドライブは続きました。随一の透明度で知られる高浜の海水浴場や、朗らかな印象のモザイク壁画が美しい三井楽教会、波砂間集落でみた漁村景観、穏やかな明るい海を高台から臨む白亜の水ノ浦教会といった、いずれの事物も五島の今を、歴史を作り続けてきた生の景観として大切なものであるように感じました。中でも印象に残っているのは、渕ノ元カトリック墓碑群。嵯峨島をバックに鎮座して大海原を望む十字の墓標やマリア像の姿は、五島におけるキリスト教の伝来から伝播、住民の信教として定着するまでの過程と苦難、それらが織り成す文化の態様を的確に物語っている光景の1つであるように心に刻まれました・・・。
福江市街地の福江教会を含め今回訪れることのできた教会は福江島における教会のほんの一部でした。しかしながら、五島における教会の占める位置についてそれが感覚的なものであるかもしれないとはいえ、掴むことはできたのかなとは思っています。非キリスト教信者である私の偏った見解では、通常市街地その他のエリアに十字架を掲げた教会が立っている姿を目にしますと、それはキリスト教信者のためにそれが設けられたものであり、周辺地域が編んできた地域性とか、文化とかいったものとは一義的には関連の薄いものであるとの認識がどうしても先行してしまいます。しかしながら、五島における教会の位置づけは、このような見方しかできない私の目にも、それが地域そのものと密接に関わりがあり、一体感のある豊かな味わいに満ちた風景として捉えることができるものであると映りました。これと同様の感覚は平戸における寺院と教会とが一緒に見える風景や、天草における崎津天主堂と漁村とが共存する風景などに対峙したときにも起こりました。五島を含むそれらの光景は本当に美しく、尊く思われました。その感情の中には、光もあり闇もありました。それゆえに、その尊さが大いに印象づけられるのかもしれません・・・。 福江市街地は、石田城跡や武家屋敷が保存されたエリアにおける、城下町を偲ばせるノスタルジックな情景と、にぎやかな商店街が形成された五島を代表する中心街の活気とがミックスした、たいへんにバランスの取れた都市景観によって占められていたように感じました。市町村合併により市名は「五島」になりましたが、確固たる中心性を維持する「福江」の市街地が福江島をはじめとした五島全体を後背地に持ちながら島々を牽引する構図には変わりはないことを実感するものでありました。フィールドワークを終えて、長崎へ向かうため向かったフェリーターミナルは、本土へ向かう人、また本土から帰ってきた人の交差点としてにぎわっておりました。
|
このページの最初に戻る
地域文・九州沖縄地方の目次のページにもどる トップページに戻る
Copyright(C) YSK(Y.Takada)2006 Ryomo Region,JAPAN |