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#8 吉井から観音山丘陵の麓へ 〜上野三碑のある風景を訪ねる〜 2016年11月30日、下仁田でのフィールドワークを終えて上信電鉄線を東へ戻り、吉井駅にて下車、地域巡りを再開しました。旧吉井町は2009(平成21)年に高崎市に編入されています。広域圏としては多野郡であったこともあり藤岡市を中心としたエリアに属した経緯から、現在でも消防は藤岡圏域となるなど、異なる広域圏間で合併した影響が残ります。駅を出て南へ、国道254号へと進みます。その手前にある吉井公民館の敷地には、吉井藩陣屋の表門が残されています。廃藩置県の際に陣屋は解体され、表門は売却され移築されていましたが、1970(昭和45)年に所有者が当時の吉井町に寄贈、復元されたものです。国道のルートは明治期の地勢図においても新町(高崎市)と富岡とを結ぶ要路として描かれています。現在の町並みにも町屋造の建物が散見されて、歴史のある中心地であることを示していました。
国道沿いに少し東へ進んだ後、県道71号を北へと針路をとります。吉井支所の東を通り、上信電鉄線を高架で越えてさらに進みますと、郊外のロードサイド型の店舗が点在する風景へと移り変わります。高崎市中心部へと向かう幹線道路である同県道は、比較的多くの自動車交通があって、高崎と吉井地区の結びつきの強さを感じさせました。鏑川に架かる多胡橋の手前を東へ入り、鏑川の流れに沿って集落と畑地などが混在するエリアを歩き、吉井運動公園の手前を南へ入りますと、多胡碑記念館があります。記念館を中心とした石碑の里公園一角に、覆堂によっ保護された多胡碑が佇んでいました。多胡碑の建立は8世紀後半と推定され、日本三古碑の一つに数えられるとともに、同じ高崎市内に所在する山ノ上碑、金井沢碑とともに「上野三碑」の一角ともなっている、貴重な石碑です。その碑文は711(和銅4)年の、多胡郡設置の経緯を記したもので、ガラス越しにその楷書の文字がはっきりと確認することができました。「上毛かるた」でも「む」の札(昔を語る多胡の古碑)に詠まれている、文化財的にも極めて価値の高い事物です。 多胡碑を見学した後は、上野三碑の中でも最古の建碑(681(天智天皇10)年)と目される、山ノ上(やまのうえ)碑を目指しました。多胡橋を越えて北詰の県道200号を東へ、高崎市の中心地区と吉井地区とを分ける観音山丘陵(岩野谷丘陵とも呼ばれるようです)の南麓をなぞるように歩を進めていきます。鏑川に沿った低地一帯に広がる田園風景や、丘陵地の木々、里山に寄り添うような穏やかな集落のあわいを辿りながら、鏑川を越えて鉄路を延ばしてくる上信電鉄線の西山名駅付近から丘陵を超える道に分け入り、1つ小さな尾根を越えた谷筋の道を進んだ先に山ノ上碑はありました。山の斜面に取り付けられた階段の上、山ノ上古墳の墓碑と推定されている山ノ上碑は、古墳の石室の開口部に程近い場所に設けられた覆堂の中に厳重に管理されていました。観音山丘陵周辺に伝えられてきた古碑は、この地域が古来より豊かな文化を育んできたことを今に伝えていました。
山ノ上碑を訪問した時点で夕刻を迎えており、金井沢碑を訪れることは断念し、上信電鉄線根小屋駅から帰路に就きました。上野三碑は2017年にユネスコ世界の記憶に登録され、近年脚光を浴びています。東日本にあって有数の古墳集積数を持つ群馬県にあって、古代史に大きな光明を与えた古碑の存在は、遙かなる時を超えて、地域の歴史を鮮やかに甦らせてくれていました。 |
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