Japan Regional Explorerトップ > 地域文・関東甲信越地方 > きらめきの上州譜・目次
←#8ページへ |
#10ページへ→ |
||||||||||||
#9 倉賀野の町並み 〜街道の分岐点と舟運で栄えた旧宿場町〜 2017年1月3日、穏やかな三が日最終日の午後に、地元高崎市の倉賀野周辺を訪れました。倉賀野は高崎線に乗って、高崎から一駅東京に近づいた場所にある旧市街地です。藩政期には旧中山道の宿場町として栄え、日光に奉幣を奉献するための勅使(日光例幣使)が辿った街道(日光例幣使街道)が分岐する場所でもありました。倉賀野からおよそ2.5キロメートル東にある「群馬の森」に自家用車を止めて、倉賀野周辺の散策へと出発しました。
群馬の森の南に接する日本化薬の工場は、明治期より終戦まで火薬工場が立地してきたこの場所の歴史を汲むものです。岩鼻町北交差点の西、天満宮のある一帯はかつての岩鼻代官所で、藩政期には上野国一円の幕府直轄地などを治めていました。岩鼻町交差点から国道17号の新柳瀬橋北交差点へと続く市道がかつての中山道です。国道17号へ出る手前、旧道をショートカットするように現道が斜めに進む場所があります。国道を横断すると連続して高崎線の鉄路を跨ぎます。国道以西は県道指定を受ける旧街道筋は、工場が集積するエリアを通過して、倉賀野の町へとつながっていきます。下町交差点で東北東方向から合流する道筋が旧日光例幣使街道です。辻には1814(文化10)年建立の常夜燈があって、往時を偲ばせています。傍らには道標と閻魔堂もあって、交通の要衝としての空気を醸し出していました。 この辻が、かつての倉賀野宿の東の入口で、ここから西へ約1.2キロメートルにわたって宿場町の町並みが展開していきます。旧街道は後進である国道17号が北側のバイパスへと移行した後も、高崎市の中心市街地へと続く重要な道路としての位置を占めていまして、片側一車線の道路を多くの自動車が通過していきます。沿道には格子壁の町屋造の建物や土蔵造の建物も多く認められます。宿場町の中心であった中町の交差点の手前には、現在は暗渠となった小流をわたる場所に、かつては太鼓橋が架けられていたことが傍らに設置された表示板によって解説されていました。旧本陣跡であるスーパーマーケット前を通り、上町交差点から南へ、住宅街を抜けますと烏川に望む公園内に「倉賀野城址」の石碑が建てられていました。烏川が形成する段丘上の要害として機能した倉賀野は、藩政期には舟運が盛んな宿場町へと発展し、賑わいを見せていくこととなりました。
そうした栄華を彷彿させる倉賀野神社の結構を一瞥して再び旧街道筋へ戻り、県指定史跡の安楽寺古墳のある安楽寺のある辺りまで進みました。藩政期の倉賀野宿はこの付近が西端で、次の宿駅である高崎へと中山道は続いていました。近傍には国史跡の浅間山(せんげんやま)古墳などの大小の古墳があって、古来よりここが重要な位置を占め続けてきた場所であることを示していました。帰路はJR倉賀野駅あたりを概観しながら町並みを再び歩いて、下町交差点からは日光例幣使街道筋を進んで群馬の森へと戻りました。水陸の物資の集散地として成長した倉賀野は、鉄道の開通により衰微し、現在は高崎市街地近傍の住宅地として存立しています。その往時の趨勢は、今日でも残るたくさんの豪奢な町屋などに濃厚に感じることができました。 |
|||||||||||||
←#8ページへ |
#10ページへ→ |
||||||||||||
このページのトップにもどる かがやきの上州譜目次へもどる トップページに戻る |
(C)YSK(Y.Takada)2019 Ryomo Region,JAPAN |