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南部九州、山野早暁
〜薩摩から大隅、日向にかけての地域をめぐる〜
2010年1月30日から2月2日にかけて、鹿児島県から宮崎県にかけての地域をめぐりました。雄大な自然や藩政期に発達した伝統的な都邑の姿を確認しながら、豊かな歴史を刻み続ける地域の今を存分に体感しました。
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訪問者カウンタ ページ設置:2014年12月31日 |
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鹿児島市街地を歩く 〜南国の大地に輝くまち〜 都市を俯瞰する風景は、その町を端的に表現していると思います。これまでに見てきた町の姿はどれも地域に根差した個性に溢れていて、市街地が成立し、成長してきた過程がまさに手に取るように感じることができます。南九州随一の都会として成長した現代都市のすぐ向こう、地域を象徴する桜島のシルエットが重なるさまは、ここを訪れる誰しもが引き寄せられます。そして、鹿児島に来たということを実感します。その鹿児島でしか成し得ない映像の中に、ある人は南国の地を踏みしめたことに対して感嘆し、またある人は薩摩藩を中心とした近世から明治にかけての歴史ドラマに思いを馳せます。近代日本の黎明期を支えた大地はいま、それらの遺産を静かに抱きながら、豊かな地域性をはぐくんでいるに違いありません。2010年1月30日、間もなく立春を迎えようとしている鹿児島の空は穏やかに晴れていて、桜島は市街地の彼方にかすかにその姿を見せていました。新幹線が開業して鹿児島中央駅と改名したかつての西鹿児島駅の西方、長島美術館から眺めた鹿児島市街地の眺望を前に、そんな思いがよぎりました。
この日は早朝に羽田空港を発って鹿児島空港に到着し、連絡バスを利用して午前10時前には鹿児島中央駅前に入っていました。西鹿児島駅時代から特急列車や在来線列車のターミナル駅として機能していましたが、前述のとおり、九州新幹線の開業に合わせて鹿児島中央駅へと名称を変更した後は駅舎が改装されるとともに大規模な商業施設(アミュプラザ鹿児島)が建設されて、鹿児島市街地における商業核の一つとして飛躍を見せているエリアを形成しています。屋上に張り出した観覧車はアミュランと呼ばれており、鹿児島市街地におけるランドマークとして親しまれるようになっているとのことです。駅前には薩摩藩が密かにイギリスに派遣した留学生を銅像にした「若き薩摩の群像」があります。彼らは留学後各方面で活躍しわが国の近代化に貢献しました。この銅像は、郷土の進取的な精神に学び、限りない発展を祈念して建設されたものであるとのことです。こうしたモニュメントの存在は、明治維新の旗手のひとつとして、現代へつながる潮流を起こした当地の自負のようなものを感じさせます。 同駅前から姉妹都市の名を冠したナポリ通りを西へ進み、程なくしますと市街地をゆるやかに流れる甲突川に至ります。南洲橋(南洲は西郷隆盛の敬称)を渡った先の加治屋町は、西郷隆盛の生誕地として知られます。そこは大久保利通など多くの幕末の志士ゆかりの地でもあることから、幕末から明治にかけての歴史をテーマとした資料館(維新ふるさと館)が立地するなど、幕末期の歴史を今に伝える事物が集まるエリアとなっています。薩摩藩では町内(郷中といいます)ごとに若者が組織化され、徹底的な鍛錬教育がおこなわれました(郷中教育)。優れたリーダーシップを持った西郷を生んだ加治屋町は、その郷中教育から多くの偉人が生まれたことが現地に掲出された説明表示板に語られていました。
加治屋町を後にして、かつて島津藩の居館鶴丸城(鹿児島城)のあった一角を目指しました。山下町から城山町にかけては、城山の山麓に建設された城郭のあったエリアで、黎明館のある場所が本丸、県立図書館から市立美術館、県立博物館にかけての一帯が二の丸でした。現在は上述の施設のほか、市役所や裁判所、県民交流センター(旧県庁)などが立地する行政文化施設が集積する地域となっています(かごしま文化ゾーンと呼ばれているようです)。そこには緑豊かな城山を背景に広々とした中央公園もあって、都会の只中としてはかなりゆったりとした空間が確保されており好感を持ちました。南には鹿児島随一の繁華街である天文館も間近で、鹿児島の町と自然とを両方感じるには最適な場所のように思いますね。 ここで、鹿児島市街地の存立について跡付けたいと思います。現在の鹿児島市街地における町場形成の嚆矢となったのは、最終的に薩摩・大隅の2国に日向国の一部をも支配することとなる島津氏が同市街地北部の清水城や内城に入り本拠としたことです。稲荷川河口部の低地には町場が形成され(上町(かんまち)と呼びます)、島津家の居城が後に鹿児島城(鶴丸城)へ移ると市街地の南へ拡張されました(上町に対し「下町」と呼称されました)。現在でもJR鹿児島駅周辺の市街地は上町と通称され、そこは一定の中心性を有しています。市街地散策は天文館の繁華街を歩き、日本で最初にザビエルがキリスト教を布教したことを祈念するザビエル公園を経て、そこから市内を循環するバス「カゴシマシティビュー」で緑豊かな城山へ上り西南西戦争に関する史跡を拝観後、上町の先にある仙厳園(磯庭園)へと続きました。仙厳園は1658(万治元)年に19代藩主光久によって築かれた別邸です。その美しく整えられた庭園からは桜島や錦江湾を望むことができまして、その優景にしばし酔いしれました。
市街地に戻ると日もとっぷりと暮れていまして、イルミネーションやライトアップが施された夜の町を散策しました。いづろ通周辺は市電通りとなっていて大変繁華な商店街です。アーケードも鮮烈な印象を与えており、天文館通りからいづろ交差点にかけてがまさに現代の鹿児島市街地の経済的な中心であることを実感しました。交差点のランドマークとなっている石灯籠(これが「いづろ」と読まれ、地名の由来となりました)は、この場所にかつて錦江湾に面した灯台があったことに由来して設置されているもののようです。市街地は戦災など受けて城下町当時の建造物は少ないのですが、近代以後の建築はいくつか残されていまして、中央公民館や県政資料館、市役所本館が登録有形文化財の指定を受けています。電飾に彩られた街路樹の先に光輝く市庁舎の姿は、伝統ある大藩の本拠を基礎としたまちの懐の深さを感じさせました。この日はこのまま市内に宿泊し、一日の活動を終えました。 鹿児島市街地を歩く過程は、西郷隆盛をはじめとした薩摩藩の歴史に裏打ちされた数々の事物や、南九州の拠点都市としての町の大きさ、おおらかさに触れる貴重な経験となりました。今回は鹿児島の町としての姿を中心に文章を構成しました。同市街地における歴史的な事物については他の多くのサイトで紹介され枚挙にいとまがありません。町の歴史的なご紹介はそうした多くの優れた文献等に譲りたいと思います。 薩摩半島南部をめぐる 〜多様な地形に彩られた地域〜 翌31日は朝から雨模様の天候となりました。この日は薩摩半島の諸地域をレンタカーにてめぐった後に、鹿児島市内でもう1泊する行程を計画していました。鹿児島湾(錦江湾)周辺には多くの火山地形が存在することが知られます。とりわけ湾奥部は姶良カルデラと呼ばれる巨大な火山性の窪地で、同カルデラは約2万9千年前に大規模な噴火を起こしました。こうした火山活動によってもたらされた火山灰性の堆積物(シラス)は南九州の広い範囲に厚く堆積し、シラス台地と呼ばれる独特の地形を形成しています。これから周遊する薩摩半島は、開聞岳や池田湖などに認められる火山地形や半島各所に発達するシラス台地、坊津付近のリアス式海岸、西岸における吹上浜の砂浜といった、多様な表層地形によって構成されています。鹿児島市街地を出発してしばらく海岸線に沿って進んだ後、薩摩半島東岸を南北に走る丘陵を越えて知覧の町へと入りました。行政的には、旧知覧町は市町村合併により現在は南九州市の一部となっています。 知覧は「薩摩の小京都」として知られます。知覧麓(ふもと)の武家屋敷群はその歴史的な景観の保全性から重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。麓(ふもと)集落とは、薩摩藩が藩政期に採った独自の統治制度により存立した武家集落のことです。薩摩藩は領地を113の外城(とじょう)と呼ばれる地域に分け、その外城ごとに領主を置き、その領主の居館である御仮屋を中心に麓集落を形成、そこに武士が集住することによって、各地域を支配しました。知覧の麓集落はその歴史的な景観を今日まで良好に維持していることから、麓集落の代表例の筆頭と目されていると言っても過言ではないでしょう。集落に寄り添うように流れる麓川のほとりの駐車場に車を止めて、集落を散策します。
断続的に降り続いていた雨は止んで、しっとりとした空気に包まれた町並みは、遠くに望む山々がしなやかなアウトラインを描きながら、その山に垂れこむ低い雲が幻想的な雰囲気を醸し出していて、実に美しい風景として目に映りました。石造りの矢櫃橋(石造橋は九州地方各地によく見られます)を一瞥しながら、集落のメインストリートである本場場通りへ。石垣の上に生垣が整然と並ぶ空間は独特の風情で、そこに冠木門が配された佇まいは武家地としての風格を感じさせます。 知覧式二つ家と呼ばれるこの地域に特徴的に見られる建築様式や、背後の山々を巧みに借景として取り入れて、その作庭の手法が琉球庭園の意匠にも通じるとされる庭園などは見ていて本当にのびやかな佇まいを見せておりまして、薩摩藩のいわば支藩でもこのような整然とした町場が営まれていたことは、藩政期における同藩における領内諸地域の文化的成熟度の高さを示しているようにも感じられます。集落の背後には、この地域を象徴する土地利用の一つである茶畑が広がっており、それを介して眺める武家屋敷地区の姿もまた美しく、素晴らしいの一言に尽きます。三叉路などの道路の突き当たりには「石敢當(せつかんとう)」と刻まれた石碑がありました。これは中国から伝わった魔除けの石で、現在の沖縄県内でもしばしば目にするものです。薩摩藩は江戸期には琉球王国も支配下に置いていました。街角のこうした事物に、琉球との文化的つながりが垣間見られました。
知覧麓集落付近は現在でも市役所などの行政機関が集積し、県道に沿って商店街が形成されるなど地域の中心市街地として機能しているようでした。知覧特攻平和会館を見学した後、池田湖や開聞岳などの火山地形が広がる指宿市をめぐり、照葉樹やソテツなどの植生や菜の花が咲き乱れる田園に春のあたたかさを感じて、薩摩半島南部におけるたおやかな風景を楽しみました。雨は小康状態であったもののどんよりとした雲が広がる天気のため開聞岳はその全容を見ることができませんでしたが、周囲のゆるやかな台地はその雄大な裾野の在りかを存分に物語っているようでした。 漁業の町として知られる枕崎を通り、耳取峠付近の狭隘な部分を通過しつつ、坊津へ。遣唐使船の寄港地として知られる坊津は、その後も大陸との交流拠点として栄えた歴史のある港の名として著名です。そうした歴史的背景や海と緑豊かな山とが入り組んだ風景に代表されるその優れた自然景観から景勝地ともなっていて、歌川広重も「六十余州名所図会」の中で「坊津坊ノ浦 雙剣石」としてその風光を描いています。ドライブルートの高台からはさまざまな入り江や奇岩、海原の景色を眺望できました。
夕闇が迫る中、半島南西部の山間部を抜けてこの地域の中心都市・加世田へ向かいました。加世田はかつてはひとつの市でしたが、周辺の町と統合し現在は南さつま市を名乗っています(坊津も南さつま市内です)。国道が中心市街地に入る手前、道路に面して建つ石造りの趣のある鳥居に目がとまりました。薩摩藩中興の祖とされる島津忠良(日新(じっしん)公を祭神とする竹田神社がそこに鎮座していました。周辺の加世田武田地区には知覧と同じ麓集落が展開していて、小規模ながら、石積、生垣、優美かつ簡素な門構えが連続する町場が穏やかに存立していまして、藩政期におけるこの地の姿を静かに伝えていました。武家屋敷の通りから石段を上がった先は別府城跡。かつて小学校の敷地であったという当所からは、夜の帳が降りつつある街並みをたいへん美しく眺めることができました。現在の加世田の市街地はここから北に広く展開しています。この加世田訪問で日没となったため活動を終えて鹿児島市内に戻り、宿泊となりました。 薩摩半島の多様な地形と豊かな文化的要素が織り成す町並みや田園風景、自然の姿は春を間近に控えた穏やかな空気の中でどれもたおやかな輝きにあふれていて、南国の柔らかな風に優しく包まれているように感じられました。 後半へ続きます。 |
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