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南部九州、山野早暁
〜薩摩から大隅、日向にかけての地域をめぐる〜
前半からの続き |
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大隅半島横断 〜中心性と求心性に揺れる都市群〜 鹿児島湾は薩摩半島と大隅半島の間に深く湾入して、交通上のエッジとして地域を二分する障壁となっています。九州島内の鹿児島県内諸地域から陸路鹿児島市を目指そうとすると鹿児島湾を迂回する格好となるため、鹿児島市街地と桜島との間を頻発する桜島フェリーをはじめとした航路で短絡する交通手段が運航されています。そうした海上ルートの優位性からかつて大隅半島を経由して運行されていた国鉄大隅線は1972(昭和47)年の全線開業からわずか15年後の1987(昭和62)年に廃止に追い込まれています。2月1日、鹿児島市を再び出発、桜島フェリーで桜島へ渡った後、桜島の風景を一瞥しながら一路東へ進み、大正時代の大噴火で陸続きとなった大隅半島に入り、大隅地域の中心都市鹿屋へと入りました。訪れた同市の現在の市役所は、廃止されたかつての大隅線鹿屋駅があった場所に建てられています。
前日からの曇天が続き、時折小雨も降る天候の中、鹿屋の市街地を歩きました。肝属川の中流期に展開する市街地は春の迫る小雨に煙るように佇んでいました。市役所から川を渡って東へ、右岸を通過する中心市街を通過するメインルートのバイパス的なルートを進みます。雨を受けて水量の多い川沿いをさらに北へ歩きますと、町並みの密度が急に高まって、新天街と呼ばれる歓楽街を経て、歩道にアーケードにある商店街へと到達しました。本町交差点から「サンロード仲町」と呼ばれる商店街を介し北だ交差点に至る一帯は鹿屋における伝統的な中心街のようで、かつては地域で唯一の百貨店やバスターミナル、や移転前の市役所も立地していたようです。川を挟んで一体的に開発された複合交流施設「リナシティかのや」が異彩を放っていました。市街地の店舗の多くは活気があまりないように感じられ、施設は十分な集客力を発揮しているとは言えないようです。しかしながら、町並みの姿は多くの街路でアーケードが付随しており、駅のあった現在の市役所までつながる一体的な商業地の姿は、北田交差点付近のかつての商業集積を考え合わせますと、この町が歴史的にかなりの集積性を持った町であったことを彷彿させるにあまりありました。中世の城郭跡である鹿屋城址の高台からは、シラス台地の間をくり抜くように浸食した肝属川の低地を埋めるように発達した鹿屋の市街地を穏やかに眺めることができました。
鹿屋の市街地散策を終え再びレンタカーに乗り東へ、低地から台地上へ一気に駆け上がります。鹿屋における郊外の商業集積地域の一つである寿地域を一瞥しながらさらに進みますと、広大な農地が展開するエリアへと一気に視界が広がりました。この頃から天候が回復し始めて、茶畑などが広がる開拓地の風景がたいへん爽快に目に映ります。直線的に延びる国道269号を進み、丘陵地域に所々に発達した小中心地群を通過しながら、宮崎県南部の中心都市、都城へ。都城は旧薩摩藩域の一部であり、先に紹介した知覧や加世田、鹿屋などと同様に、外城と呼ばれる地域の一つでした。都城はそれらのうち、都城島津氏が独自に治めていた私領で、小藩にも匹敵する規模の石高を擁していました。そのため、ミニ城下町的な様相を呈しており、それが今日の市街地の礎となっています。明治維新後の廃藩置県では一時都城県の県庁が置かれました。現在市役所のある場所は藩政期に領主館があった場所で、廃藩置県後は県庁舎、宮崎県成立後はその支庁舎が立地していまして、そこは一貫して地域の行政的な拠点であり続けています。
市役所の西を貫通する国道10号は中央通りと呼称される都城市街地の目抜き通りです。通りは藩政期から続く中心地です。アーケードも整備され、県南の拠点都市としての景観を保持しています。広口交差点はかつてはロータリーであったようで、ウェブ上でも「広口ロータリー」の表現が散見されます。県合同庁舎のビルが建つ交差点付近には高度成長期におけるロータリー構造であったころの写真が掲出されていて、往時の街並みを確認できました。交差点の西には高架駅であるJR西都城駅があります。中心市街地の最寄駅ながら、広い構内には店舗はなく、駅前もけっこうな空間が確保されているものの大きな建物も少なく、全体的に閑散とした印象です。都城盆地一円を商圏としてきた中心市街地の玄関口として整えられものの、その後の市街地の空洞化によってその規模を有効に活用できていない現状が想起されました。そうした諸施設の大きさが、百貨店が多く立地した往時の都城の中心性の高さを示しているようにも感じます。2011(平成23)年1月には最後に残っていた百貨店(都城大丸)が休業(その後閉店)しています。2014年7月からは解体が始まり、同施設を所有する法人(商工会議所などが出資)と市が一体となった再開発事業が順次進んでいくようです。
西都城駅を後にして、島津家米蔵屋敷跡の建物が残る摂護寺(しょうごじ)や壮大な鳥居が印象的な神柱宮(かんばしらぐう)と巡り、中心駅であるJR都城駅へと至りました。西都城駅と違い地上駅の駅舎はやや簡素な風貌で、前者のそれとは対照的に、コンパクトな駅前に多くのタクシーが駐留する様子が印象に残りました。駅前には大型ショッピングセンターも進出しているようで、一部にはこうした施設への集客が中心市街地への客足を奪ったような分析もネット上で見られます。鹿屋の状況と同様に、都城もまたモータリゼーションの進展や郊外における大型商業施設の成長、高速交通網の発展に伴う中核都市(鹿児島や宮崎)への買物客の流出(ストロー効果)などの影響を大きく受けているように思われました。それゆえに、そうした現状を経た状況にあっても、なお最盛期の町のにぎわいを思い起こさせるアーケードや町並みを前にしますと、地域の中心都市が擁したかつての求心性の凄みがノスタルジックに胸に迫ってくるようです。 早春の宮崎路をゆく 〜あたたかさに満ちた南国のすがた〜 都城駅から市役所へ戻り、国道222号を東進して日南市方面へ向かいました。この日はそのまま日南へ出て宮崎市内に投宿し、2日の午前に出発する便で帰路に就くこととしていました。日南市域へと抜ける国道は鰐塚山地の比較的急峻な山間を抜けていきます。日南ダム近傍の「道の駅酒谷」付近より北へ山を分け入りますと、日本の棚田百選にも選定されている坂元棚田に行き着きます。昭和戦前期に建設された棚田は階段状の石積みが整然とした佇まいを見せていました。全体的になだらかな斜面にある棚田の風景は流麗そのもので、早くも花を咲かせていたゲンゲが可憐な花弁を弱い日差しにさらしていました。酒谷川流域の小集落と市中心部とを連絡するコミュニティバスが運行されているようで、坂元集落にも小ぢんまりとしたバス停が設置されていました。
棚田を見学した後は、昔ながらの城下町景観が残る飫肥(おび)へ向かいます。飫肥は2002年夏に訪れて以来の再訪となりました(西海道訪問記II参照)。九州の小京都と称されるかつての城下町は、小地図に見える街路がほぼそのまま残存し、往時の面影を残しています。徐々に日が弱くなり始めた2月初旬の町には本当に静かな時間が流れていまして、飫肥城址の大手門前からの眺めはとても美しくて、地域に根差し真摯に生活を営んできたこの町の歴史そのままを映しているのではないかと感じさせました。 蛇行する酒谷川の左岸に発達した城下町は整然とした区画によって整備されていまして、高度経済成長期頃までは旧南那珂郡一帯(日南市・串間市)の政治・経済の中心地として栄えていたのだそうです。武家屋敷の続く町並みは石垣や生垣を配した中に風格のある門がしつらえられた景観が特徴で、それにはこれまで見てきた薩摩藩の麓集落との類似性を感じながらも、一藩として江戸期を全うし、明治の外交で活躍した小村寿太郎をはじめとした多くの偉人を輩出した場所としての凛とした気風をも垣間見えるような気がいたしました。商業地としての趨勢は、港町として町場を形成してきた油津や、その油津と飫肥の中間に位置し新生・日南市の中央に位置していることから市役所が立地する吾田(あがた)などにシフトしています。しかしながら、城下町としての伝統と遺産が地域の誇りとなり、かけがえのない力となって地元を鼓舞し、多くの人々をひきつける源となっていることは実に貴いことと思います。飫肥というどこかエキゾチックにも見えるその地名にも、そういった雰囲気が濃厚に染み込んでいるようにも感じます。
飫肥から酒谷川の流域を下って吾田から油津にかけての現代の市街地と港湾風景を概観した後、夕暮れの日南海岸を北上しました。日南海岸という名前の響きそのものも南国の空気が漲っていて、太陽の輝きや海のきらめきが凝縮されたような印象です。日南はその名のとおり「日向(現在の宮崎県域にほぼ相当する旧令制国名)の南」の意味ですが、地域名称として定着したのは実はかなり最近のことのようで、前述した飫肥・吾田・油津が合併を模索した際、それぞれが地域の中心を主張する中で、一部で使用されていたこの名を市名とすることに決着したことに端を発するもののようです。その後の観光地化などによってこの名前が浸透し、現在では「日南海岸」など地域を代表する地名として市民権を得ています。 日没間近に鵜戸神宮を参拝した後は、その風光が多くの観光客を虜にする海岸をドライブしながら、県都宮崎市に入り、この日の活動を終えました。宮崎の市街地は県域中心都市として遜色のない規模で、この日巡ってきたローカルな中心都市の状況とは明らかな対照を見せていました。訪問した時は宮崎の魅力をトップセールスする当時の知事の動向が度々クローズアップされていました。そうした中にあって、県レベルの中核都市が一定の中心性を維持し、県内の地域中心都市がその力を発揮しきれていない現状は地方における地域振興の難しさがダイレクトに表出していたように今になっては思えます。
翌2月2日、宮崎は快晴の朝を迎えました。市街地の宮崎神宮や青島などを回りながら、春へと時を進める南国の日差しを体いっぱいに浴びて、その日の正午頃の便で羽田への帰路に就きました。鹿児島市街地での輝かしい空気そのままに、宮崎の風景は明るさに溢れていまして、これから始まる新しい季節への序章を軽やかに記し始める地域を清々しい気持ちで見送ることができました。 立春前の数日間、鹿児島から宮崎へと進んだ行程は、この地域が織り成す雄大な自然景観のたおやかさとあたたかさに見守られる道のりとなりました。地域をめぐっていたその当時の感想としては、中核都市としての鹿児島や宮崎の活力を見つめたのと同じ視線で、地域の中心都市としての一定の集積性を見せる鹿屋や都城の町を歩いていたように思います。本文では現在における相対的な停滞状況をより強調した表現となりましたが、これはその後にこれらの地域への多くの見方に触れながら、そうしたいわば負の側面を捨象したまま筆を進めることは地域の今を正確に捉えるという意味においては相応しくないのではないかという思いからでした。とはいえ、鹿屋や都城が今においてもそれぞれの地域において中心的な位置を占める都市であることには変わりはなくて、その規模にマッチした都市としての顔を確かに持っていることは紛れもない事実ですし、誇るべきことです。この文章をまとめるにあたって、このことはしっかりと書き留めておきたいと思います。
目映い空に緩やかに照らされた山野、晩冬の雨にしっとりとした佇まいを見せた街並み、どこまでも広がっているように感じられたシラス台地の耕地、特色あふれる都市の姿、そしてそうした地域のそれぞれに満ちていた歴史的な資産とともにある空気はそのすべてが地域を歩く私に多くの感動を与えてくれていました。冬の帳の中でゆっくりと英気を蓄えた南の大地は、その内包したこの上ない豊かな力を開放しながら、新たな時に向かって雄々しく羽ばたいていくような未来図を予感させました。 |
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