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西海道訪問記 II
2002年7月末、昨年と同じような輝きの中、光に溢れる九州南部をめぐりました。高千穂では突然の雨に遭遇し、佐多岬では、広大な海原の向こうから勢いよく吹き渡る風を感じました・・・。 |
通潤橋 (熊本県矢部町、2002.7.27撮影) |
佐多岬付近の海 (鹿児島県佐多町、2002.7.28撮影) |
※熊本県矢部町は2005年2月11日、蘇陽町、清和村とともに合併して「山都町(やまとちょう)」に、また鹿児島県佐多町は2005年3月31日に根占町とともに合併して「南大隅町(みなみおおすみちょう)」に、それぞれなっています。 |
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(1)高千穂の峰 〜九州山地、雨に佇む〜
熊本は、夏の日差しが強烈にたたきつけていた。九州の南には、台風が接近しているはずなのだが、その影響はまったくない。瀬戸内海を越え、九州山地をまたいだ航空機は、すっきりと晴れた空に照らされた熊本平野をゆるりと旋回し、熊本市東郊に位置する熊本空港に降り立った。熊本の夏は、ゆるやかに広がる大地とともに、目眩めく明るさに溢れているように感じられる。昨年から夏の九州の諸地域を訪れることを継続した格好になるわけだが(西海道訪問記I参照)、その行程で一貫して見てきたことは、大地や海が常に鮮烈なる夏の灼熱を受けて輝いてきたことであったように思う。熊本空港をレンタカーで出発し、阿蘇の南郷谷を進む。阿蘇の中央火口丘と外輪山との間の大地は、なだらかな容貌を呈し、夏の鮮やかないのちの色に溢れているようだ。その平かな稜線の先に、目指す高千穂がある。道路は、やがてカーブや傾斜が多くなり、九州山地の只中へとつながっていく。
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(2) 佐多岬から都井岬、飫肥へ 〜大隅半島から日向へ〜
鹿児島湾は、桜島という巨大な火山島(大正時代の噴火で現在は大隅半島と陸続きになっている)のカルデラに海水が浸入したような格好になっていて、豊かな風光を作り出し、鹿児島を代表する景観を構成している。またその一方で、鹿児島県の旧国が大隅と薩摩に別れていることが暗示しているように、この海は鹿児島県の県土を東西に分断する、自然の障壁としての顔も持っている。薩摩半島と大隅半島の先端、指宿と根占とは、直線距離にしておよそ10キロメートルほどなのであるが、実際は海に隔てられているため、この両地点を陸路で移動しようとすれば、鹿児島湾を大きく迂回する必要があり、その道のりは150キロメートルほどにもなるのである。そういった地形条件を克服するために、鹿児島湾を横断するいくつかのフェリー航路が開設され、桜島東半分に市域を伸ばす鹿児島市と桜島間の航路については、昼夜を問わず密な運行が行われている。前日に高千穂から通潤橋、五家荘、人吉を経て鹿児島市に行き着いていた私は、早朝に鴨池港へと向かい、対岸の垂水へ向かうフェリーに乗船した。台風の影響で、鹿児島市内は夜半まで大雨が続いていて、その影響はこの日の朝にも残り、あいにく船上から桜島の全山を見通すことはできなかった。やがて、背後になだらかな丘陵を背負った垂水港が眼前に迫った。垂水市街地の東側には、地図上で確認すると「高峠高原」という記載がなされており、標高1000メートルを越える山の名前も見受けられる。垂水の市街地の両側は、ナイフで端を切り落としたようなテーブル上の台地になっており、それは内陸の笠野原方面へと展開する「シラス台地」の一部をなすもののように思われた。丘陵や台地の向こう、東の空からは、グレーの雲の向こうに朝日が洩れ始めていた。
垂水からは、国道を南下し、大隅半島最南端、佐多岬を目指した。途中、鹿児島県東部における中心都市の1つ、鹿屋の市街地を見てみたが、多くの商業施設が集積している様子が見て取れ、人口規模以上の中心性を擁していることが想像された。鹿屋から再び海岸沿いに南へ向かい、大根占町の神川大滝公園では、昨晩までの降水で十分な水量を保持した瀑布が豪快な姿を見せていた。また、幹線道路から外れると、山間部の道路には木の枝や泥などが多く堆積している個所が至るところにあって、「台風の通り道」たる当地の気候を象徴していた。大根占に来る頃には、空は夏の青さを取り戻していて、最高気温もかなり上昇することを予感させていた。大根占の市街地から根占町を経て、佐多町役場所在地の伊座敷地区までの距離は約23キロメートル、佐多岬はそこからさらに県道を経ておよそ15キロメートルほどの道のりを行く。鹿児島湾の穏やかな海面と、緑の大地、対岸に見え隠れする開聞岳の山容などを楽しみながら、佐多岬へ車を走らせた。
この海は、交流の歴史ということ以上に、薩摩藩における琉球支配の残影が見え隠れして、純粋にその態様をポジティブに捉えられないところだったが、この海は多くの豊かさを運ぶ道の1つであったことは揺るぎない事実であったことだろう。そう考えると、単純に「本土最南端」と位置づけ、わざわざ国土のエッジとしてプロットしなくとも、アジアスケール、さらにはグローバルスケールの座標軸の中で想像を膨らませた方が、より多くのものを見つめ直すきっかけとして、意義のあることであるように思う。亜熱帯の暑さ漲る佐多岬の気候は、まさにそういった尺度のなかで、より鮮烈に印象付けられるのではないだろうか。佐多岬へ向かう遊歩道の入口には、たくさんの気根を枝に垂れ提げたがじゅまるの木が大きな影をつくっていた。
飫肥の町は、伊東家5万1000石の城下町をその基盤とする昔語りの町である。碁盤目状に区画された町に、石垣や蔵、武家屋敷、城跡などが豊かに残るその町並みは、「九州の小京都」とも呼ばれるなど、そのしずかさやおちついた容貌は、南国であることを忘れさせてしまうほどであるように思われた。せみたちが威勢のよい泣き声を響かせる中、午後3時を回っても太陽の光線は依然力強く、まちのあらゆる事物を照射しているにもかかわらず、城跡の石垣の一つ一つ、200年以上も保存されてきた建造物の柱の一本一本、懐かしささえ感じられるほどに慎ましい街路の一筋一筋をとっても、なぜかとても凛々しく、雄雄しくも感じられた。伊東家は、鎌倉時代以来の名門でこの地域における地頭職の位置にあったが、戦国期になると隣り合う大藩島津家に攻められ、江戸時代に至り旧領を安堵された後も島津氏との確執が続いたという。大藩の勢力圏が大きく展開した鹿児島県から宮崎県西部にかけての地域においては、強大な鹿児島市の成長と、それに比して相対的に規模の小さいローカルな中心都市群が展開するという構図ができあがったわけであるが、そのような趨勢の中にあって、飫肥城下町の穏やかな佇まいが今に伝えられていることは、重要な意味を持つことなのではないかとさえ思えてくる。飫肥の町を散策しながら、ふとこのようなことが脳裏に浮かんだ。 |
(3) 西海道の風、東へ 〜海を介してつながる道〜
大淀川に面した開放的な市街地、市街を南北に貫くフェニックスの街路樹がまぶしい橘通りに象徴される宮崎は、大学時代に青島を中心に訪れて以来の訪問となった。鹿児島市からひたすらにドライヴを続けてきたこともあって、宮崎市内に到着したのは既に夕刻となっていた。そのため、宮崎では夜に少し街中を散策し、当地の名物である「冷や汁」を食することくらいしかできなかった。翌日は、大分の佐伯からフェリーに乗って、四国・高知県の宿毛まで移動し、そこで改めてレンタカーを借りる手筈になっていたのである。
フェリーは、だんだんと九州から遠ざかっていく。リアス式海岸に接する背後の山々は、夏のもやもやした海面の彼方、とても清清しい青緑色を呈しながら横たわっている。フェリーが通り過ぎた跡は、しばらく白く泡立って残り、徐々に小波に打ち消されていく。 西海道訪問記 II −完− |
Regional Explorer Credit | |
2002年7月27日 | 熊本空港到着。レンタカーにて、高千穂、通潤橋、五木の里、人吉を経て鹿児島市内にて宿泊。 |
7月28日 | 鹿児島市を出発、引き続きレンタカーにて、垂水までフェリー、佐多岬、都井岬、飫肥を経て宮崎市内にて宿泊。 |
7月29日 | 電車にて佐伯市へ移動、宿毛港へフェリーで向かう。 |
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