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関東の諸都市・地域を歩く
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#105 柏市街地から南へ 〜常磐線沿線の中核と手賀沼南岸の風景〜 2016年7月16日、利根運河周辺のフィールドワークを終えた私は、運河駅から東武アーバンパークライン(野田線)を利用し、JR常磐線との結節点となる柏駅へ移動しました。柏市は人口約42万人の千葉県第五の都市です。地域の歴史を紐解きますと、現在の柏市中心部一帯は、藩政期以来の幹線道路であった水戸街道沿いにありながらも大きな町場は形成されていない場所であったといわれます。そうした場所が一躍高い中心性を得るようになったきっかけは、前述の柏駅が鉄道路線が交わる場所になったことでした。1896(明治29)年に現在の常磐線にあたる日本鉄道土浦線が土浦から柏を経て田端まで完成し、1911(明治44)年には千葉県営鉄道(現在の東武野田線)が柏駅から野田町駅(現在の野田市駅)まで開業したことにより、交通の要衝としての柏の成長が始まりました。その後東武線は、西は春日部駅を経て大宮駅まで、南は船橋駅までそれぞれ延伸されまして、現行の柏駅は東京都心と直結しながら、埼玉と千葉を同心円状に連絡する交通路線とも接続する形となっています。
柏駅の東口に降り立ち、駅周辺の市街地を概観することとします。東口には、ダブルデッキと呼ばれるペデストリアンデッキがあり、周辺の商業施設と連接しています。このペデストリアンデッキは多くのサイトでは日本初のものと紹介されているようです。その完成は1973(昭和48)年で、この駅前の再開発を画期として駅周辺には百貨店をはじめとした複数の商業施設が立地しています。一部に閉店したものがあるなど若干の変化を経ていますが、その多くが今日も営業を行っており、駅前の繁華を支えています。2012(平成24)年にリニューアルされたペデストリアンデッキから地上へ降り、駅前から続く通り沿いを進みます。沿道は中小の商業ビルで埋め尽くされており、柏が地域の中核都市として飛躍的な発展を遂げた様子を存分に実感できます。南側にはアーケード商店街である柏二番街もあって、多くの人々で溢れていました。 駅前から続く通りと、旧水戸街道の道筋である通り(柏一・二丁目と同三丁目の境となっている道路)との交差点の南に接し、柏神社が鎮座しています。八坂神社と境内に勧請された摂社の羽黒神社を、1974(昭和49)年の社殿の改築竣工に合わせて合祀し、呼称を柏神社に改めたものであるようです。周囲が高度に市街地化された中にあって、柏神社の境内は昔ながらの風情をよく保っていまして、ここが水戸街道沿いの古くから人通りのあった場所で会ったことを思い起こさせました。この「関東の諸都市・地域を歩く」ではしばしば言及している明治期の地勢図を参照しますと、冒頭に記述したとおり、近代はじめの柏市域はほとんどが台地上に展開する農村然とした土地利用が卓越する状況であったことが見て取れます。柏駅周辺では、西口の県道278号から朝日町交番前交差点を経て、東口の県道51号へと続く道路が地勢図上にも認められまして、歴史のある古くからの道筋であると知ることができます。そのほかは長全寺や北側の諏訪神社、市街地南の大塚神社が図上に記載されているほかは、水戸街道沿いに若干の家屋の表示と、「畑」や「松」といった土地利用の表示があるのみとなっています。柏駅周辺がこの約100数十年の間、特に高度経済成長期末期からの約40数年間に、いかに急激な変化を遂げたかを物語る事象であると言えます。
柏神社から、地勢図上にもあった長全寺の様子を概観し、前記の通りに多くの建物によって近代的な都市となった柏駅周辺の趨勢を確かめつつ、柏駅前まで戻りました。ペデストリアンデッキ(ダブルデッキ)上は、ちょっとしたイベントを開催することのできる市民広場としての機能も併せ持ちます。その広々としたデッキ上は、この短い間の訪問の間でも、人並みが途切れることはありませんでした。再び東武アーバンパークラインを利用し、今度は船橋方面の列車を利用します。鉄路は柏駅を出ますと駅の南側でJR線を跨ぎ、真南へほぼ2キロメートルほど進んだ後に南東方向に針路を変えます。東側には手賀沼に流入する大津川とその支流が形成する谷戸が北東から南西方向に複数切れ込んでいまして、その起伏をできるだけ避けるようなルートになっているようにも感じられます。現在のこの地域は、そうした地形的な起伏が地図上ではあまり意識されないほどに市街化が進んでいまして、首都圏における郊外化の趨勢を濃厚に意識付けされる車窓風景が展開していたように思います。 柏駅から数えて4駅目、柏市内では最南の高柳駅で下車し、フィールドワークを再開しました。高柳駅周辺は2005(平成17)年3月の柏市との合併までは沼南町の範域でした。ここからの行程は、この旧沼南町の地域を、白井市域を挟みながら手賀沼南岸の手賀の丘公園へと至るものとなりました。高柳駅から東へ、県道8号を経て県道280号に沿って歩きます。この辺りまで来ますと鉄道沿線の開発が進んだエリアから距離を置くこともあり、大津川が作る谷戸を中心に広がる水田や、この地域特産の梨畑が点在する景観へと徐々に移り変わっていきます。白井氏との境界に近い、藤ヶ谷地区の台町と呼ばれる集落には、銚子沖で取れた魚介類を、利根川の河岸である布佐地区から江戸川沿いの松戸まで陸路搬送する「雑魚街道(なまみち)」と呼ばれる街道が江戸時代から明治初期にかけて機能していて、地区に鎮座する常夜灯に、往時の賑わいが反映されていました。
その後は、一部路線バスを利用しながら白井工業団地へと進み、産業団地として開発された校外エリアにおける土地利用の一例を確認しつつ、「金山(かなやま)落とし」と呼ばれる、下手賀沼へ流れ込む小河川がつくる低地の水田風景を眺望し、台地上へ上る急坂を辿り、手賀の丘公園へと足を伸ばしました。手賀の丘公園は台地上の森を生かした公園で、アスレチックやスポーツ、バーベキュー、キャンプ、水遊びを楽しむことができます。公園北の展望台から細長くたゆたうような手賀沼を遠望しました。その雄大な風景は、ここがかつて現在の茨城県から千葉県にかけて、霞ヶ浦などの多くの湖沼を取り込むように存在していた内海「香取海」の一部であったことを思い起こさせます。手賀の丘公園からはさらに東へ、周辺に点在する史跡を訪ねながら、谷戸と水田と台地上の森と畑地と集落とが連続する、しなやかな風景を探索しました。旧手賀教会堂は、茅葺屋根が残る首都圏最古の教会建物で、江戸時代から続く民家を改築し1881(明治14)年に設置された歴史を持ちます。近傍の興福院の境内は中世の城郭である手賀城跡の一部です。台地と低地が織りなす地域に、中世から現代までつながる事物を跡づけることができることに感嘆し、この日の活動を終えました。 午前中から「駅からハイキング」によるウォーキングを終えた後のフィールドワークであったこともあって、手賀地区からの帰路は路線バスを利用しました。疲れが残る中を何とか県道282号沿いまで歩き、柏駅行きのバスに乗車しました。午後6時を回っていた柏駅のダブルデッキ上は、夕刻を迎えて依然としてたくさんの人々が闊歩する状況でした。 |
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