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関東の諸都市・地域を歩く
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#110 我孫子、水と台地の風景 〜手賀沼を望む市街地をゆく〜 2016年10月29日、春日部市のウォーキングを終えた私は、春日部駅から東武アーバンパークラインで柏駅へ、さらに常磐線に乗り換えて同線では千葉県内最北の我孫子へと進みました。JR我孫子駅は橋上駅舎を擁する比較的シンプルな構造で、ベッドタウンとして住宅地かが進んだ地域の最寄り駅としての様相が強いような印象を受けました。
駅南口の駅前通りを進みますと、間もなく国道356号に到達します。通りの周辺は小規模な店舗も多く立地しますが中低層のマンションも多く、都心近郊の住宅地として伸張した当地の地域性が反映されています。この国道のルートは水戸街道筋にあたります。藩政期から我孫子宿が整備され、利根川の渡河点であるとともに成田方面へのルートも分岐する交通の要衝として栄えました。交差点の南東にこぢんまりとした社殿を持つ八坂神社は明治期の地勢図にも「天王社」の記載で存在が確認できる古社です。国道の南側は手賀沼へ向かって急激な下り坂となっています。旧我孫子宿を基盤とする現在の市街地は、手賀沼と利根川に挟まれた東西に細長い台地上に連なっていまして、その坂は台地から低地へと遷移する崖地形を反映したものです。穏やかな木立に囲まれた香取神社を一瞥し、国道から南へゆるやかに下るようにつくられた新しい道路を辿りながら、台地と低地の間の閑静な住宅地を進みます。 宅地内に設置された案内表示に沿って進みますと、台地の際にあたる天神山緑地へと到達します。この場所は講道館柔道の創始者で「柔道の父」とも呼ばれる嘉納治五郎の別荘跡地にあたります。現在は木々に覆われてしまっていますが、別宅を構えた往時はこの高台から手賀沼と遙か彼方の富士山とを眺望することができたことが説明されていました。至近には嘉納治五郎の甥である柳宗悦も別荘を構えたことから、白樺派の同人である志賀直哉や武者小路実篤も我孫子に移住し、この別荘(三樹荘:敷地内に「智・財・寿」の木として地域住民から崇敬を集めていた三本の椎の木があったことから嘉納が命名したもの)は文芸発信の拠点ともなりました。常磐線により東京都結ばれ、手賀沼を見下ろす風光が注目された我孫子は、明治時代より別荘地として注目されるようになり、独自の文化が花開くこととなりました。三樹荘脇の坂道は天神坂と呼ばれる、緑の中を散策することができる美しい石段の道になっています。文人が集まり大正期には「北の鎌倉」とも称された我孫子の風韻を感じさせる穏やかな散歩道でした。
天神坂を下りた後は、崖下の「ハケ道」と呼ばれるルートを東へ進みました。「ハケ」は関東地方では台地の崖を意味します。緑南作緑地公園の杉村楚人冠碑や緑雁明緑地の志賀直哉邸宅跡などを訪ねて、湧水のある台地の下のしなやかな道を歩きました。台地の際は水の便がよく、樹木に覆われているため、この「ハケ道」は生活の道として機能したほか、手賀沼へと続く低地は水田として広く利用されました。旧村川別荘を確認した後は、手賀沼北岸の手賀沼公園へと向かいました。市街地に接する水辺は対岸の丘陵地の緑も相まってとても清新な印象です。高度経済成長期を経て深刻な水質汚濁が問題となって以降は浄化に向けての取り組みが各方面で進められているようです。 手賀大橋上から沼の風景を展望した後は、夕刻が迫る中我孫子市街地の旧水戸街道筋に戻って、かつての宿場町を受け継ぐ町並みを歩きました。国道沿いには現代的な建物が多く、宿場町時代の面影を残す事物は少ない印象でしたが、鉤の手状にに曲がった道そのものは現代に受け継がれていまして、地域の歴史を感じさせていました。 |
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