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関東の諸都市・地域を歩く
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#117 小田原市街地を歩く ~旧東海道と小田原城をめぐる~ 2016年12月10日、湘南新宿ラインの開業以来アクセスが容易になった小田原を訪れました。ピンポイントでは来ることのあったこの町ですが、市街地を歩くのはこの日が初めてでした。駅前のペデストリアンデッキからは、市街地のアウトラインの先に小田原城を望むことができました。階上の回廊から駅前の繁華な町並みへ降りますと、豊臣秀吉の小田原攻めの後自刃したと伝えられる北条氏政と氏照の墓所が残されていまして、戦国期に北条氏の拠点として繁栄した史実を物語っていました。
小田原市は神奈川県西部の中心都市として、また大観光地である箱根への玄関口として都市基盤を成長させてきました。新幹線も停車する駅前の景観は人口規模(約19万人)に比してかなり大きな印象を受けます。駅周辺の飲食店や商店が多く立地する錦通りを通って、市街地を東方向へと進んでいきます。戦国時代、北条氏の城下町として建設された小田原は、小田原城を中心に土塁と空堀で取り囲む、「惣構(そうがまえ)」と呼ばれる防御機構を保持する「要塞」でした。新玉小学校の東側に、「蓮上院土塁」と呼ばれる土塁が現存しています。これは小田原城惣構の東側を構成したもので、1590(天正18)年に豊臣秀吉の小田原攻めに対抗して北条氏が建造したものです。土塁の外側には暗渠となった堀もありまして、難攻不落を誇った戦国期の小田原の姿をとどめていました。 蓮上院土塁に沿って南東へ進みますと、旧東海道を承継する国道1号に行き着きます。現在は直線的に通過するこの道には、藩政期には「江戸口見附」と呼ばれる枡形(クランク状に道を曲げていた場所に見張り番所を置いた施設)が存在していました。山王口とも呼ばれたこの見附から、東海道小田原宿の町並みが形成されていました。現地に設置された案内板には、松並木が続く大正初期の江戸口見附の様子を写した写真が掲載されていました。現在の町並みは現代的な住宅地の向こうに中心市街地のシルエットを望むものとなっていますが、傍らには江戸から20番目の一里塚が設置されていたことも解説されていました。江戸時代の小田原は、小田原版の城下町として、また東海道の宿場町として栄えました。旧東海道は新宿交差点から海岸側に折れて現在は「かまぼこ通り」と呼ばれる通りを西へ進んで城下を貫いていました。小田原駅や小田原城周辺の中心市街地からはやや離れて、現在は穏やかな市街地が展開する場所となっていますが、歴史を感じさせる老舗や古い商店街の風景もあって、ゆかりの古さを実感します。
西湘バイパスの下を潜り、箱根から伊豆半島へかけての山並みを緩やかに受け止める相模湾のきらめく海を確認し、江戸時代には中堅藩士の武家屋敷地であった西海子(さいかち)小路界隈の風情を感じながら、小田原城へと向かいました。現代の幹線道路たる国道1号を越えて山角天神j社横の坂道を上り、堀に囲まれた小田原城内へ。箱根の外輪山から延びてくる丘陵地の先端部に位置する小田原城の立地に、先述した惣構の中心に君臨した要塞としての城の出自を実感します。現在は二の丸の外側、東から南にかけて残る堀ですが、堀は本丸も取り囲んで設けられていまして、その後を観察することができます。2015年7月から2016年3月まで行われていた耐震化・改修工事を終えた天守は、雲一つ無い冬空に優美に聳えていました。夕刻に再訪した天守の階上からは、三浦半島を遠望する相模湾の彼方に初島と大島を望み、伊豆半島から箱根、丹沢山系を一望の下におさえる風景を見通すことができました。 本稿は、JR東日本駅からハイキング「旧東海道小田原宿を巡るハイキング」のコースを辿ることにより作成しました。 |
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