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関東の諸都市・地域を歩く
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#124 鎌ケ谷市の諸地域を歩く ~開墾からベッドタウンへつながる風景~ 2017年3月11日、東武アーバンパークライン(野田線)・新鎌ヶ谷駅を訪れて、この日の活動を始めました。新鎌ヶ谷駅は東武線のほか、新京成線と北総線、それに北総線の線路を共用する京成成田スカイアクセス線も停車する、同市内でも最大の結節性を誇ります。駅の周囲には商業施設が立地するとともに、市役所や総合病院、新興住宅地域も開発されていまして、都心や船橋、柏、成田空港などへのアクセス性が高い当地の躍進ぶりが窺われました。
そんな新しい町並みを東へ辿りますと、市制記念公園へと至ります。同公園はその名のとおり、鎌ケ谷市が1971(昭和46)年に市制を施行したことを記念してつくられました。公園の東側は新鎌ヶ谷駅を中心とした住宅地区の外縁部となっていまして、その東側には畑地も多く広がっていまして、広大な大地を幾筋もの谷地が開析する、下総台地の特徴的な土地利用を認めることができます。この辺りの古くからの地名は初富(はつとみ)です。水が得にくく原野として残されてきたこの地域一帯は、江戸時代には「小金牧(こがねまき)」と呼ばれた、江戸幕府が軍馬を育成するために設置した放牧場として利用されました。明治に入り、版籍奉還により職を追われた氏族らを救済するために大規模な入植が行われることとなり、その最初の開拓地が「初富」でした。以降、開発地は序数を用いた命名法により、二和(ふたわ、船橋市)、三咲(みさき、船橋市)、豊四季(とよしき、柏市)、五香(ごこう、松戸市)、六実(むつみ、松戸市)、七栄(ななえ、富里市)、八街(やちまた、八街市)、九美上(くみあげ、香取市)、十倉(とくら、富里市)、十余一(とよいち、白井市)、十余二(とよふた、柏市)、十余三(とよみ、成田市・多古町)と順次設定されたことはよく知られています。 高度経済成長期以降に畑地が開発されて市街化されてきたとおぼしき街路を南へ歩きます。丸山一丁目交差点で交差する県道57号は古くから存在してきた道筋で、交差点を東へ折れて進みますと、鎌ヶ谷大仏駅付近の市街地へと行き着きます。南北に貫通する県道59号沿線は住所が鎌ケ谷を名乗っているように、木下街道の宿場町として藩政期に町並みが整えられた旧鎌ケ谷宿を承継する町場です。いわば、鎌ケ谷市の原点である市街地です。木下(きおろし、印西市)は利根川沿いにある舟運で栄えた宿場町で、木下街道は台地に経営された先述の放牧場のエリアを縦貫しながら、旧江戸川の本行徳(船橋市)とを連絡していました。鎌ケ谷の町には、駅名にも採用されている鎌ヶ谷大仏が鎮座しています。町並みに守られるようにしてある八幡神社の佇まいとともに、大仏の柔和な容貌は、とこしえの平和を希求するかのように、どこまでも慈悲深く春空の下に輝いていました。
再び丸山一丁目交差点に戻り、新京成線をくぐってさらに南、西へと針路をとり、東武鎌ヶ谷駅へ。駅のある場所は道野辺と呼ばれますが、駅名はこの地域で随一の中心性を持っていたであろう鎌ケ谷の名を採用することとなったものと想像されます。駅周辺には中層のマンションや店舗が多く立地していまして、郊外の畑や雑木林などがつくるのびやかな景観へと軽やかにつながる、穏やかな郊外住宅地の雰囲気を感じさせます。そうした住宅地を西へさらに進み、中部小学校の脇を通って歩いて行きますと、北東から南西へ傾斜する細長い谷地へと導かれました。台地と谷地との間の斜面には穏やかな斜面林が発達していまして、昔ながらの自然風景が彷彿されました。台地を削る小流が瑞々しい風景を構成する谷地は、かつては水田として利用されることが多い土地でした。さらに谷地に沿って西へと進んだ先には、プロ野球日本ハムの二軍本拠地であるファイターズ鎌ケ谷スタジアムが立地していました。 球場周辺の景色を確かめながら、鎌ヶ谷駅から歩いてきた側とは反対側の谷地の上の大地へと進んでいきます。斜面林のつくる木影を越えて歩く台地上は、千葉県では生産量の多い梨畑として多く利用されているようでした。新鎌ヶ谷駅からの行程の間にも、梨畑は所々に確認することができまして、「二十世紀梨」のふるさとたる千葉県の地域性を実感します。谷地は北東の上流に向かうにつれて徐々に幅が狭くなって、やがて東中沢地区の住宅地の中へと取り込まれていきました。団地内には谷地がつくる低地へと続く階段のある場所もあって、戸建ての住宅が並ぶ画一的な景観にちょっとしたアクセントを与えていました。その谷地がつくる細長い形状の低地部分を辿っていきますと、道路端に水路が修景されている箇所もあって、宅地として開発される前の原風景を都市のデザインとして生かす工夫がなされていました。最上流部は貝柄山公園となっていまして、静かな池と、涼やかな木立とに包まれた、快い風景が現出していました。貝柄山公園の近傍には、冒頭にご紹介した小金牧の遺構である「捕込(とっこめ)」と呼ばれる、野馬を追い込み、網掛けして捕獲する区画の跡が現存していまして、公園内では捕込を含む国史跡「下総小金中野牧跡」についての紹介ブースが設けられてました。
貝柄山公園からは東側に出て、東武線沿いを北上して新鎌ヶ谷駅に戻り、鎌ケ谷市内をめぐるフィールドワークを終えました。首都圏の縁辺部において多くの鉄道路線が敷設された鎌ケ谷市は、ベッドタウンとして飛躍し、今日でもその歩みを進めています。江戸時代の放牧場から開拓地、そしてその後の郊外化の時代を経て、住宅地や新興市街地、畑地や谷地など、鎌ケ谷市内には多様な風景が残されて、このまちの新たな原風景となっている様子を、心ゆくまで探勝することができました。 |
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