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関東の諸都市・地域を歩く


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#14 房総・大多喜の町並み 〜丘陵に佇む小さな城下町〜

 市原市内を国道297号線を南へ、市原市内陸の小中心地牛久のようすなどを概観しながら、ゆるやかな丘陵地帯をひらすらに南へ向かい、房総の小江戸・大多喜の町へと到達しました。夷隅川が曲流するあわいに発達した小盆地に発達した大多喜の町は、近世の城下町から夷隅郡下の中心的な都邑として変遷した小粒でもぴりりと辛い町場であるように感じました。土蔵や町屋が町の歴史を濃厚に刻み、千葉県立中央博物館の分館(旧総南博物館)として建設された大多喜城は、徳川四天王と称された本多忠勝が大改修した城が所在した場所にあり、往時の豪快な雰囲気の一端を垣間見せています。市街地から少し中に入った住宅地域内にあった公営の駐車場に車を置いて、町歩きをスタートさせました。

 いすみ鉄道大多喜駅は、駅舎そのものは小ぢんまりとしているものの、駅前には「歓迎」の文字が刻まれたモダンな石造の街灯が設置されていたり、「大多喜城」の文字の見える木製の常夜燈が設置された公園が整備されていたりと、歴史的な町並みを生かした修景づくりがなされていまして、コンパクトな駅舎とあいまってシンボリックな効果を十二分に発揮しているように思われました。市街地へと下っていく道路を歩みながら、周辺の土蔵や重厚な瓦屋根の残る町並みの中へと自然といざなわれていきました。途中、木の格子壁が落ち着いた風合いの木材店の建物が佇んでおりまして、大多喜の町の懐の深さを感じさせます。

大多喜駅

いすみ鉄道・大多喜駅
(大多喜町大多喜、2005.11.5撮影)

大多喜駅前

大多喜駅前の景観
(大多喜町大多喜、2005.11.5撮影)

木材店

木材店の景観
(大多喜町猿稲、2005.11.5撮影)
渡辺家住宅

渡辺家住宅
(大多喜町久保、2005.11.5撮影)

 大多喜城下の旧市街地は、コの字状に蛇行する夷隅川といすみ鉄道の鉄路によって囲まれた、概ね500〜700メートルくらいの比較的狭い範囲に展開しています。片側一車線の県道の両側には見た目には低密な市街地が連続していきます。しかしながら、目を凝らしますと、幕末から明治期にかけて形成されたと思われる、趣のある町屋が随所に点在しているのが分かります。現在では相対的に中心性が低下している穏やかな町並みとなっている大多喜の町が、城下町としての基盤を生かしながら、夷隅地域の在郷の中心地として栄えてきた道のりの一端を垣間見るようでもありました。そんな大多喜を象徴する建築が、国の重要文化財の指定を受けている「渡辺家住宅」です。寄棟造りの間口の広い、堂々とした概観が壮観なこの建物は、幕末の1849(嘉永2)年の建築です。地元猿稲町の棟梁佐治兵衛の手による、江戸末期の上層商家を代表する商家造りであるのだそうです。現在は桟瓦葺となっている建物も、創建時は茅葺であったようです。店・茶の間・仏間・中の間からなる母屋の後ろには木口縁をめぐらせた奥座敷が造られているのだそうです。渡辺家の向かい側には、やはり昔ながらの商家を利用した「商い資料館」があり、往時の大多喜を偲ばせています。町場は千葉銀行のある桜台交差点付近では一定の集積性を見せていまして、交差点の南、3回にわたってクランクする鉤の手を経る一帯が現在の大多喜市街地の中心となっていることを感じさせました。

 その鉤の手を曲がったあたりは「新丁」地区。城下拡張によって新興した街区であるような地域は、現代においても相対的に中心性の高いエリアであるように感じられます。その一方で、城下町大多喜を感じさせる事物もまた残されています。豊の鶴酒造は、天明年間創業の老舗の造り酒屋です。渡辺家同様間口の広い寄棟造りの建物は、重厚感に満ちた商家造りの観を呈しています。店舗建物の裏側には土蔵造りの酒蔵や煉瓦造りの煙突などが並ぶ酒造のためのスペースが連接していまして、大多喜町が城下町大多喜の歴史や文化を活かしたまちづくりを進めようと始めた「街なみ環境整備事業」によって整えられた石畳の街路の佇まいとあいまって、豊かな緑と酒蔵の景観とが馴染んだ、奥ゆかしい景観が再現されていました。その豊かな町並みと緑見満ちた丘陵の頂には、天守の佇まいを模した博物館の建物が屹立しています。

商い資料館

商い資料館
(大多喜町久保、2005.4.29撮影)

豊の鶴酒造

豊の鶴酒造
(大多喜町新丁、2005.11.5撮影)

酒蔵の景観

酒蔵の景観
(大多喜町新丁、2005.11.5撮影)
大多喜城分館

千葉県立中央博物館 大多喜城分館
(大多喜町大多喜、2005.11.5撮影)

 2006年4月より、旧称の「千葉県立総南博物館」から「千葉県立中央博物館 大多喜城分館」とその名前が変わった博物館は、大多喜城の立地した高台に建てられています。「房総の城と城下町」をテーマに房総を中心とした中世から近世にかけての城郭やこれに関する武器・武具・調度・文書及びこれらを取り巻く人々の生活資料等の展示が行われています。博物館の前からは、夷隅川沿いの小盆地に広がる大多喜の町をたおやかに望むことができます。眼下の大多喜高校の敷地はかつての大多喜城二の丸のあった場所で、現在でもかつての大多喜城の遺構である薬医門と大井戸が残されています。この大井戸は周囲10メートル、深さ20メートルの「底知らずの井戸」として知られる、日本一の大井戸とされているのだそうです。

 城下町として、「徳川四天王」のひとり本多忠勝が10万石の所領で入部した大多喜も、その後は幾多の領主の変遷を経て、幕末には2万石の小藩となっていました。この目まぐるしい領主の交代が、その後の大多喜の都市としての命運を大きく左右してきたようにも感じられます。現在の大多喜の町並みは、城下町としての気概を存分に残しながらも、地域の中心地として緩やかな時代を過ごしてきた歴史をも示しているのではないかとも思われました。


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