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関東の諸都市・地域を歩く
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#15 越ヶ谷と大沢を歩く 〜現代都市軸に埋もれた旧街道筋〜 私が東京に出るときは、大半は東武伊勢崎線で特急「りょうもう」を利用するか、同線を久喜まで利用しJRに乗り換えるかの手段をとります。「りょうもう」は近年は東武動物公園をはじめ埼玉県内の駅に停車するようになったものの、何より指定席でゆったりとできますので、重宝しています。座席でゆっくりしていますと、自然と車窓の景観を観察することとなり、そしてそれは東京大都市圏の態様をも感じさせる機会となります。利根川を越えてもしばらくは田園地帯の中に集落や住宅団地などが点在する風景が連続していきます。次第に空間が住宅や中高層の建築物によって充填されるようになりますと、路線も高架化し、さらには複々線化して、一気に東京大都市圏の直接の外縁部にさしかかったことを実感します。越谷は、市街地が途切れ目なく連続した都市圏としての東京大都市圏の、この路線沿線における最外縁に位置する都市であるといえるのかもしれません。高架駅としてすっきりとした概観の越谷駅を出て、市街地散策へと向かいます。 駅東口周辺の特徴として、多くの金融機関が集積していることが目に留まりました。周辺は商店街というよりはこれらの銀行支店によって構成された、ちょっとしたビジネス街のようになっていまして、埼玉県南東部におけるこの町の拠点性の一端を窺い知ることができましたね。エックス型の歩道橋が渡されている交差点を越えますと、元荒川に臨んで市役所、中央市民会館が立地するエリアとなります。元荒川に並んで、「逆川」と呼ばれる葛西用水路が併走していまして、用水路に沿って整えられている柳の並木や藤棚の散策路と併せ、水辺の緑地景観がたいへんに穏やかに感じられました。越谷付近の葛西用水路が「逆川」の名前で呼ばれているのは、市役所からも程近い御殿町地内において、用水路が元荒川の下をサイフォンの原理で潜っているからであるのだそうです。再び駅の方向に戻り、特徴的な歩道橋のある交差点で「日光街道」と呼ばれる道路を横断し、この道路の西を並行している県道越谷流山線を北へ折れます。今でこそ愛称として「日光街道」の名前を東の県道に奪われる形となっているものの、近世以来の日光道中(奥州街道)はこの道路(県道越谷流山線)にあたります。エックス型の歩道橋の上からは、高度成長期以降に建設されたと思しき中低層のアパートや雑居ビル等に埋もれるように、蔵造りの町屋が残っているようすを俯瞰することができます。江戸期に日光街道が整備された際、越谷にも宿場町が設置され、元荒川を挟んで北接する大沢の町とともに町場として成長してきた歴史があります。宿場町としては「越ヶ谷」と書かれていたようです。市名としては「越谷」表記でも、町場としてのそれは「越ヶ谷」の表記が住居表示を含め貫かれているのも特徴的です。以下、旧宿場町としての地域にスポットを当てるため、「越ヶ谷」の表記を採用して話を進めてまいります。
駅付近では高層マンション建設中と思われる一角があるなど多くの建物が高度成長期以降のスタイルに更新されていまして、モータリゼーション等の影響を感じさせる、空洞化の進行した商店街としての色彩が強いように感じられます。モータリゼーションとの関連で思いやられることは、こういった伝統的な中心商店街エリアにあっても、郊外等における他の商業地域などと同様に、自家用車の走行が非常に多いことです。トラックやトレーラーなどの大型貨物車両が通過することも珍しくありません。歴史ある街道筋の場合、歩道の面積も十分に確保されていないケースが多くて、徒歩での移動には結構な危険が伴います。越ヶ谷の町もその例に漏れず、フィールドワーク中もとめどなく車両が通過し、この日は雨も降っていたことから、歩行にはたいへんな神経を遣いました。しかしながら、私自身も自家用車を利用しておりますし、その意味では同罪であるというそしりはまぬかれません・・・。 また、町を歩いていてもう1つ気づくことは、東西方向に現代的な広復員の道路が建設されつつあることでした。越ヶ谷の旧市街地は東に元荒川の流路、西に東武線の鉄路によって挟まれた狭い範域に展開するかたちとなっており、自然南北方向に比べて東西方向への結節性に乏しかったものと推察されます。こういった事情が、狭小な旧街道筋を切り裂くような東西交通軸としての広い街路を作らせているのでしょうか。住居表示で「中町」となっている街区を東西に貫通する街路は、現在の「日光街道」で途切れる形となっているものの、その東には「青葉通」と呼ばれている街路が見えていて、元荒川を渡河する地点にまで達しています。将来両道路は連結される計画となっていることが容易に想像できます。駅周辺の商店街的な色彩を残しつつも、中町あたりになりますと蔵造りの商家が比較的多く残されておりまして、旅館もわずかながら立地し宿場町としての面影を今に伝えています。このような穏やかな雰囲気を残す町場を劈くような街路に面して、中町浅間神社が鎮座します。御正体を壁にかけて安置する「懸仏(市指定文化財)」が奉納される小ぢんまりとした社殿の傍らには、樹齢600年程と推定される大ケヤキ(市指定天然記念物)が豊かな葉をいっぱいに繁らせていました。
越ヶ谷本町の信号で再び幹線道路を横断し、大橋で元荒川を越えますと、大沢の町となります。大沢は、当初は越ヶ谷宿の伝馬における助合村として成立しています。商業機能をも備えた越ヶ谷と一体的な区画を擁しつつも、大沢はいわゆる宿駅機能に特化した、純粋な宿場町であったようです。このようにはじめのうちは独立した機構を持つ宿場町であった越ヶ谷と大沢の町は、後に双方の伝馬機能を統合し、両町を一括して「越ヶ谷宿」と呼ぶようになったのだそうです。大沢の町を歩きますと、越ヶ谷と比較して果たして町屋が少ないことが分かります。商店街というよりは、都市近郊の住宅街といったほうが的を射た表現であるようにも感じられます。大沢の場合、何より北越谷駅前における再開発の影響が大きなものであり、町は北越谷駅を中心とした現代的な仕様に急速に再編成が進んでいると見たほうがさらに的確であるのかもしれません。穏やかな旧街道筋の家並みのスカイラインから地上28階建ての住商複合再開発ビル「パルテきたこし」が大きく屹立し、強力なランドマークとなっている姿はまさにその象徴といえるでしょう。北越谷駅の高架化が完了したのは、2001(平成13)年春で、これを機に駅周辺では再開発事業が急ピッチで進められ、同年中にはパルテきたこしのメインテナントである東急ストアが開店、懐かしい雰囲気も濃厚に残っていた北越谷駅前は一気にクリアランスされ、現代的な駅前景観へと変貌を遂げました。周辺では更なる開発やマンション建設などが進んでいる模様で、越ヶ谷同様、東西方向の道路が拡幅されたようでした。越ヶ谷と大沢は互いに連接して、歴史的に一体的な町場を形成してきました。現代の都市の発展軸は都心方面へのアクセスが大幅に向上した鉄路や自動車交通に便利な東西交通軸の増強によりそれらを中心とした地域構造へと大きく再編成が進められ、伝統的な町場どうしの結びつきはそれらに埋もれて、相対的に目立たない方向に向かっているように感じられます。相変わらず交通量の多い県道に挟まれて、香取神社が鎮座します。豊かな杜に包まれた境内は周囲の喧騒がうそのようにひっそりとした空間に支配されていまして、地域の憩いの場となっているようでした。 北越谷駅を東へ向かい、住宅街を通り抜け、越ヶ谷の郷社・久伊豆神社へと向かいました。平安末期創建と伝えられるこの神社は、鎌倉時代には武蔵七党の1つ私市(きさい)党の崇拝を受け、江戸期には将軍家の保護も受けた伝統ある神社です。社殿はスタジイなどの原生林の樹相をよく残しているという緑穏やかな社叢に守られていまして、元荒川まで続く参道とともに、落ち着きのある環境が残されています。池に面して埼玉県指定天然記念物の藤棚もみずみずしい木陰をつくりだしています。その静かさは、一歩外に出れば住宅街がすぐそこにまで迫っていることを忘れさせてくれるほどです。久伊豆神社の存在は、街道筋が近世の幹線道路として整備され、越ヶ谷の町場が整えられる以前より、この越ヶ谷周辺が伝統的な集落として一定の規模を擁していたことを想像させます。緑に溢れたぬくもりをふんだんに取り込んだ森は透明感に満ちた輝きをいっぱいに含んで、東京大都市圏の住宅都市として急激な人口増加を見た現代の越谷の歩みをどのように受け止めているのでしょうか。 |
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