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関東の諸都市・地域を歩く


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#160 東松山市、高坂から「まなびのみち」へ ~低地と丘陵の初夏を歩く~
 
 2019年5月18日、東松山駅前を東へ出発し、中心市街地にある下沼公園を一瞥しながら市民活動センター前へと進みました。東松山の市街地は台地上にあり、この市民活動センター付近から地形は市野川がつくる低地帯へと移行していきます。その台地と低地の境界となる崖に沿って湧水が認められる場所があります。現在は崖の上も下も市街化が進む景観の中を南へ、散策を進めていきます。五領沼公園はそうした水辺を生かした公園となっていまして、それは台地の末端の崖を介して緩やかに広がる現代の町並みに潤いを与えていました。

東松山駅前

東松山駅前
(東松山市箭弓町一丁目、2019.5.18撮影)
五領沼公園

五領沼公園
(東松山市若松町一丁目、2019.5.18撮影)
水田の風景

水田の風景
(東松山市下青鳥付近、2019.5.18撮影)
天神社

天神社
(東松山市下青鳥、2019.5.18撮影)
まなびのみち

まなびのみちの風景
(東松山市高坂、2019.5.18撮影)
まなびのみち

まなびのみち
(東松山市高坂、2019.5.18撮影)

 東松山の中心市街地を貫く南北の通り(国道254号旧道)から南へ続く市道は川越へ続く伝統的な主要道路です。その市道を越えてさらに南へ向かいますと、徐々に周囲には田畑が広がるようになって、関東平野の茫漠な雰囲気へと景色が移り変わっていきます。国道254号の東松山バイパスを過ぎ、都幾川に近づくにつれてその土地利用はますます明瞭になっていきまして、梨畑や屋敷林を伴う集落なども点在して、田園地域として存立してきた地域の歴史をそれは物語っています。そうした風景の中、西側に併走する東上線をひっきりなしに列車が通過していくことが、ここが東京郊外のベッドタウンであるということをリマインドさせていました。その東上線の鉄路をくぐった先の水田には水が引き入れ始めていまして、上押垂集落の中には天神社が佇み、穏やかな農村集落の風情を今に伝えていました。

 再び東上線の東側へと進み、東松山橋で都幾川を渡ります。明治期の地勢図を確認しますと、この付近の都幾川は蛇行を繰り返していますが、現在の川は直線的に改修されているようで、右岸側に蛇行していた頃の河道跡が残っているのが分かります。穏やかな都幾川の流れを越えた先は、東上線高坂駅周辺の新興開発エリアとなります。高坂は藩政期まで川越街道と日光脇往還とが交差する交通の要衝として町場を発展させてきた地域です。現在では駅の西方における丘陵上の開発もあって、西口側が先行して市街地かが進展している傾向があるようです。橋上駅社内の自由通路によ西口に出て、貨物線の廃線跡を一部利用しながら整備された遊歩道「まなびのみち」へと進んでいきます。

田園風景

まなびのみちから見下ろす田園風景
(東松山市坂東山付近、2019.5.18撮影)
高坂丘陵の新緑

高坂丘陵の新緑
(東松山市神戸付近、2019.5.18撮影)
九十九川流域の谷地田

九十九川流域の谷地田
(東松山市岩殿、2019.5.18撮影)
ハナショウブと斜面林

ハナショウブと斜面林
(東松山市岩殿、2019.5.18撮影)
市民の森

穏やかな新緑の山道を進む(市民の森)
(東松山市岩殿、2019.5.18撮影)
岩殿観音

岩殿観音(正法寺)
(東松山市岩殿、2019.5.18撮影)

 一部が採掘された粘土を運搬した「東武鉄道高坂構外側線」の廃線跡を利用している「まなびのみち」は、かつての鉄路らしく、緩やかなカーブを描いて、左手に続く丘陵地帯の裾を進んでいきます。セメントの原材料を採掘場から運搬するためにつくられた旧貨物線は1955(昭和30)年10月に開通し、1984(昭和59)年7月末に廃止されています。その存在は、高度経済成長期の膨大な建築需要に応えるべく、旺盛な採掘作業が行われた往時の時代背景を彷彿とさせます。現在のそのルートは、雑木林や畑地や住宅地などを縫うように、丘陵をとりまくように伸びていました。関越道の下をくぐる手前で散策道は一度廃線敷は消失し、化石と自然の体験館入口交差点から南へ、丘陵の斜面を開発した流通団地へとのぼっていきます。そこから細い山道に入り、竹林の広がる藪の中へと進みますと、まなびのみちは再び廃線敷を踏襲するルートを辿るようになります。途上からは眼下に水田として利用される田園風景を俯瞰して、台地と低地とが織りなす、関東平野の縁辺らしい風景を眺望することができます。

 廃線敷と重なるルートから二度離れ、急な坂道を上り、岩殿丘陵を越えて、九十九川(つくもがわ)の流域の谷地へと進みます。丘の斜面に集落が寄り添い、川沿いの低地には水田が開かれる風景は、こうした丘陵に刻まれた狭い低地においては一般的に認められる、典型的な土地利用の形態と言えます。田植えの時期を間近に控えて、耕作が行われようとしている場所と、既に荒れ地となって草原となっている場所とが交錯する風景もまた、中山間地においてしばしば見られる光景であるとも指摘できます。入山沼と呼ばれる溜池や谷津田の風景を味わいながら、ハナショウブが咲き始めた小径を、新緑が眩しい市民の森と呼ばれる林の中へと歩いて行きます。谷津を取り巻く森は水田へ良質な水を供給し、薪炭や建材などの源泉となり、人々の日常生活と切っても切れない環境として大切に維持・保存がなされてきました。現在ではその役割も大きく変容しましたが、季節の移ろいの中でさまざまに潤いある景色をみせる森は、とても貴重な資産であるとも言えるでしょう。

岩殿観音参道

岩殿観音参道を俯瞰する
(東松山市岩殿、2019.5.18撮影)
大東文化大学キャンパス

大東文化大学キャンパスの風景
(東松山市岩殿、2019.5.18撮影)
岩殿観音参道

岩殿観音参道の風景
(東松山市岩殿、2019.5.18撮影)
弁天沼(鳴かずの池)

弁天沼(鳴かずの池)
(東松山市岩殿、2019.5.18撮影)
高坂彫刻プロムナード

高坂彫刻プロムナード
(東松山市元宿二丁目、2019.5.18撮影)
高坂駅

東武東上線・高坂駅(西口)
(東松山市元宿一丁目、2019.5.18撮影)

 アカマツやクヌギの森を抜け、県道343号線に出て、岩殿観音として知られる正法寺を参詣しました。経大を取り巻く岩壁に穿たれた穴蔵に石で掘られた仏像が安置される古刹は、1574(天正2)年の中興開山と伝わります。県道は東へ進むとそのまま高坂駅の西口方面へと進んでいきます。大東文化大学の広大なキャンパスを一瞥し、正法寺の表参道の景観が残る北側へと歩を進めました。山並みに埋もれるようにして昔日の佇まいを残すその風景は、源頼朝の命により復興した寺院という生い立ちも含め、戦乱の時勢における信仰の姿を今に伝えているようでした。県道に戻り、高坂駅西口へとつながる市道へ折れますと、「高坂彫刻プロムナードと呼ばれるシンボルロードへと導かれます。東松山の中心部から高坂地区へ、自然に抱かれるニュータウンの風景と、地域の原風景を投影した田園の景色とが、豊かに響き合うような地域の初夏を満喫することができました。


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