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関東の諸都市・地域を歩く


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#17 三富(さんとめ)新田の大地 〜“武蔵野”の空気に触れる〜

 三富(さんとめ)新田は、埼玉県の南部、上富(かみとめ;三芳町)、中富(なかとめ;所沢市)、下富(しもとめ;所沢市)の三地区を総称したエリアの名称です。三富新田は、1964(元禄7)年に川越藩主柳沢吉保により開拓された新田集落です。江戸時代は、それまでは水利や土壌の関係で耕作に適さない土地においても盛んに耕地化が進められました。その際に設けられた農業集落を一般に「新田集落」と呼びます。各地に存立した新田集落の多くはその後の都市化や耕地整理などの影響を受けて現代的な景観に変貌しました。そうした流れの中にあって、三富新田は開発当時の土地割がよく保存されている典型的な地域として、地理の授業においてもしばしば紹介されます。三富新田の特徴は、その短冊状に計画的に配された、整然とした区画です。道路に面して屋敷林に覆われた宅地を配置し、その背後に畑地をつくり、さらにその後ろに山林を配しました。短冊状の地割は間口40間(72メートル)、奥行375間(675メートル)の区画であり、面積にして5町歩(5ヘクタール)のサイズに統一されました。今回は、このような新田開発当時の土地利用が残されている三富新田をご紹介いたします。

 三富新田の1つ、上富地区において、住宅に面していた道路は現在県道さいたま上福岡所沢線となり、さいたま市方面から所沢方面を連絡する至便な道路として、交通量の多い幹線となっているようでした。地域の東端には関越自動車道が縦断している関係からか、スプロール的に工場や流通関連の事業所が立地していることも、この道路の通過車両の数を多くしているのではとも感じます。しかしながら、そういった喧騒を緩和させて余りあるケヤキの並木はたいへんに快く、しっとりとした樹冠を頭上いっぱいに広げていました。県道を折れて、1696(元禄9)年に三富新田に入植した住民の菩提寺として建立された多福寺へと向かいました。多福寺の周辺は、穏やかな雑木林となっていまして、広大な原野の中に雑木林の木立が展開する“武蔵野”の雰囲気を濃厚に実感します。これらの雑木林はコナラやクヌギ、アカマツなどによって構成されていることを、一隅に設置された案内表示板は語っていました。

茶畑

茶畑の見える景観
(三芳町上富、2006.7.23撮影)
多福寺付近

多福寺付近の雑木林
(三芳町上富、2006.7.23撮影)

旧島田家住宅

旧島田家住宅
(三芳町上富、2006.7.23撮影)
島田家長屋門

島田家長屋門
(三芳町上富、2006.7.23撮影)

 緑深き木立中に立ちますと、せわしなく聞こえてくる蝉時雨に混じって、かすかに木々の中にたゆたう水流のこんこんとした音が聞こえてくるような気がして、たいへん心が和みます。多福寺から南へ木立を進みますと、木ノ宮地蔵堂の堂宇が佇みます。江戸時代の古文書は、この地蔵堂が805(延暦24)年に北国遠征中の坂上田村麻呂が武蔵野で道に迷い、地蔵菩薩に助けられたことからこれに感謝して地蔵堂を祀ったのが始まりと伝えているのだそうです。1642(寛永19)年に消失した地蔵堂は三富新田開拓後に開拓農民のてによる再建や、その後の修復を経て、1777(安永6)年に現在の地蔵堂が建立をみているのだそうです。

 再び通過車両の絶えない県道に戻り、三富集落最古の住宅として移築復元された旧島田家住宅の前で車を降りて、周辺を辿ってみることにいたしました。島田家は三富新田開拓当時に現在のふじみ野市亀久保から移り住んだ農民で、上富村の名主を命ぜられた富農であったようです。から緑に満ちた樹冠が連続する県道は、ところどころ歩きやすいように歩道が広げられているところがあり、路面も単純に舗装してしまうのではなく、土の地面をそのまま残している場所もあって、昔ながらのこの地域の雰囲気を取り入れながら快適な歩道空間をつくろうとする工夫が感じられます。先ほど自動車で通過した多福寺前交差点の南には、島田家の長屋門が残されています。長屋門は江戸期に武家の屋敷に使われていたもので、農民には名主など一部の者のみが建築を許されたものであるのだそうです。入母屋造りの重厚な門構えは当時の街道筋にあって一際りりしく、燦然とした姿を見せていたに違いありません。当の県道は現代的な都市間連絡道路へと肥大化し、かつての新田集落内におけるのどかな街道といった風情は微塵も感じられません。しかしながら、大木となったケヤキ並木やそれに続く屋敷林の緑、そして名主・島田家の家屋や門などの事物が時を重ねながらしっとりとした佇まいを見せておりまして、そうした事物の作り出す“武蔵野”の原風景をも髣髴とさせる景観は、自動車の往来のきわめて著しい近代道路であっても、そうやすやすとかき消すことのできないものではないかとも感じられました。そして、そのようなかけがえの無い風景は、ケヤキ並木や屋敷林を越えた、三富新田の大地の中にこそありました。

けやき並木通り

県道さいたま上福岡所沢線
(三芳町上富、2006.7.23撮影)
上富地区

上富地区の畑地景観
(三芳町上富、2006.7.23撮影)
さつまいも畑

上富地区・さつまいも畑
(三芳町上富、2006.7.23撮影)
上富地区

畦畔茶の見える景観
(三芳町上富、2006.7.23撮影)

 三富新田は、土地を街道筋と直行する方向に細長い短冊状に区画し、街道に近いほうから住宅、屋敷林、畑、山林と計画的に土地利用を実施した特徴を持つことは既に触れました。島田家長屋門のあたりから、この短冊状に仕切られた畑のほうへ通ずる小道へと進んで、広大な畑へと躍り出ました。なんとすばらしくて、爽快な風景なのでしょうか。三富新田を訪れたのは初めてではありませんでした。その時もたいへん感動しました。そして、その見事なまでの新田集落を投影した大地の姿に、今回も大きく心を揺さぶられました。農地はそれぞれの宅地ごとに細長く作られていまして、川越名物のさつまいものほか、さといもやしそ、とうもろこしなどが栽培されて、輝かしい葉を広げていました。畑と“畦”との間には茶が帯状に植えられているのも特徴的です。これは現地では「畦畔茶(けいはんちゃ)」と呼び、畑の境界を示すほか、畑の土壌を風から守る役目を果たし、新茶の季節にはこれを出荷し貴重な収入源とする、機能的な役割を持つものでした。広々とした畑の彼方には、山林の緑がゆるやかにつながっているのが見て取れます。山林は薪などの供給源となるほか、落ち葉を集積させて腐葉土のように培養した肥料をももたらしてくれます。屋敷林の中にも落ち葉をひとところに集めて、肥料化しているようすを垣間見ることができました。この発行の過程で熱が発生することから、それを「苗床」として3月頃にさつまいもを並べて(地域の言葉でこの作業のことを「ふせこみ」というのだそうです)発芽させ、5月頃の畑への植え込みに間に合わせるということも行われているのだそうです。送電線が走っていたり、彼方に工場や流通関連の事業所が立地しているのが見えたりと、風景そのものは大きく現代的なものへとシフトしています。そんな中にあっても開拓時の土地割を今に伝える三富新田の姿はこの上なく貴重な財産であるとも思えました。三富新田地域は、埼玉県指定旧跡「三富開拓地割遺跡」としての指定も受けています。


 開拓と一口に言いましても、これにあたった農民の苦労がいかに大きいものであったかは想像するに余りあります。赤土の卓越した火山灰性の土壌は地味が弱く、風が吹けば風塵となって舞い上がる劣悪な大地を前に、農民は地力を確保するために大量の施肥を求められました。水もちの悪い大地は農業にも生活にも欠かせない水を得ることも並大抵のことではありません。深井戸も涸れることが多かったようで、離れた川へ水を汲みに行くといったことも少なくなかったようです。三富新田の美しい田園風景には、こうした先人の大きな、本当に大きな尽力があったことも忘れてはなりません。豊かな畑地として受け継がれた大地の歴史をかみ締めながら、静かに三富を後にいたしました。

※畑は私有地です。立ち入ったり、作物を荒らしたりしないように!畦からの見学も必要最小限にしましょう。

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