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関東の諸都市・地域を歩く


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#18 小江戸川越を歩く 〜現代に生きる蔵の街〜

 川越市は、埼玉県内で最初に市制を施行した市です。1922(大正11)年12月に3万人あまりの都市としてスタートした川越市は、高度経済成長期における急激な社会増などを経て、人口30万人を越える中堅の都市として大きく飛躍しました。JR川越線は川越を基点として東は埼京線経由で、また西は八高線経由でそれぞれ都心へ直接乗り入れる路線体系へと変化し、従来から存在する東武(池袋方面)・西武(新宿方面)へのアクセスと加えて、東京との結合関係が強固となり、東京大都市圏における住宅都市の1つとしての性格も強い街ですね。城下町として都市基盤を存立してきた市街地には蔵造りの建物が立ち並び往時の面影を残す一方、各ターミナル駅周辺は高度に商業地化が進んでおり、県南部の中核都市として、中心性の高い市街地を形成しているのも特色です。城下町としての情緒、県南部の中心都市としての基盤、東京都心の衛星都市としての態様と、多様な側面を持つ川越の町を歩いたのは、2006年7月29日でした。この日は川越最大の祭の1つ、「川越百万灯夏まつり」が開催されており、市街地はいっそうの賑わいを見せていました。

 川越市役所の駐車場に自家用車を止めて、まずは市街地外縁の史跡をめぐります。氷川神社は市街地北縁に鎮座する古社であり、この日はお宮参りの参詣客で賑わっていました。石灯篭の並ぶ街路を戻り、歩道が広がりながらも鉤の手状のクランクが残されている街路を東へ、初雁公園へと至ります。郭町(くるわまち)の住居表示が示しているとおり、この公園一帯はかつての川越城の本丸跡です。公園の名前は川越城の別名、初雁城からとられています。緑豊かな公園は野球場や市民プールなどの運動施設が立地し多くの市民の憩いの場となっているほか、壮麗な唐破風の大玄関が美しい本丸御殿や富士見櫓をはじめとした土塁などの城郭の遺構、そして童歌「通りゃんせ」の歌詞が発祥したと伝えられる三芳野神社などが緑豊かな森の中に穏やかに残されたエリアとなっています。壕跡はすべて埋め立てられているとのことで、公園の周辺は閑静な住宅街となっています。住宅街を抜けて、交通量の多い県道を越えますと、川越大師として知られる喜多院は近くです。徳川家光誕生の間、春日局化粧の間などで知られる客殿や書院は、失火で全焼した後に江戸城から移築されたものであるのだそうです。日本三大羅漢の1つとされる五百羅漢や重厚な入母屋・本瓦葺の楼鐘門など見所の豊富な境内を歩き、逸話がその名に刻まれた「どろぼう橋」を通り、市名を冠した駅が集積する駅前エリアへと歩を進めていきます。

川越城本丸御殿

川越城本丸御殿
(川越市郭町二丁目、2006.7.29撮影)
三芳野神社

三芳野神社
(川越市郭町二丁目、2006.7.29撮影)

喜多院

喜多院
(川越市小仙波町一丁目、2006.7.29撮影)
クレアモール

クレアモールの景観
(川越市脇田町、2006.7.29撮影)

 初雁公園の位置を中心とした城郭と、現在蔵造りの町並みが続く町場の位置が川越の伝統的な市街地であるとすれば、鉄道駅が集まる一帯はどちらかといいますと場末的なエリア、あるいは町場と近在との間の遷移的な要素を持つエリアであったのでしょうか。通町の信号を過ぎ、丸広デパートの東を南北に連なる八幡通と呼ばれる街路を歩いていますと、池袋や新宿へと向かうターミナルに至近のエリアとして、多くの高層住宅やデパート・商業ビルが林立する現代的な町並みが展開するなかにあっても、八幡神社の森をはじめ、どこか昔懐かしい雰囲気をも感じます。近現代の都市軸がこのエリアに相次いで成立し、東京大都市圏からの都市化の波が強く押し寄せてくるにつれて穏やかな郊外エリアであったこの界隈は急速に高密度化し、洗練されて、現在に至っているというストーリーが感じられるような気がいたしました。八幡通を南に行き着きますと、JR川越駅前に至ります。宙空歩道が重なりデパートや多くの高層建築物によって充填された駅前のエリアに導かれます。ペデストリアンデッキとなって車の流れと遮断されたコンコースは多くの人々が闊歩しておりまして、駅前から八幡通の西を並行する商店街「クレアモール」に向かって、人の流れが続いているようでした。

 クレアモールは、この通りに沿って展開する「川越新富町商店街(モールの北半分のエリア)」と「川越サンロード商店街(モールの南半分のエリア)」とを統一して呼ぶ名称です。川越駅と本川越駅に挟まれたクレアモールは夏祭りの熱気溢れる巷となっておりまして、現代における川越市街地の中心的な賑わいを見せている地域であるようにも思われました。クレアモールを北へ向かいますと、本川越駅周辺へと行き着きます。駅前の県道は駅周辺でやや道幅が広く取られていまして、駅ビル前の広場的なスペースとともに、開放的なターミナルといった風情です。狭いエリアの中にぎゅっと高層建築物がひしめくような形の川越駅前とはやや対照的な要望を呈していますね。ショッピングセンターとホテルとが連接した駅ビルが屹立する本川越の駅前は、百万灯祭りのオープニングを控え、出店やイベントなどに多くの人々が惹き寄せられていました。ここから蔵の町並みの続く川越一番街へは、徒歩でも10分程度の道のりです。



JR川越駅前の景観
(川越市脇田町、2006.7.29撮影)
本川越駅

西武本川越駅
(川越市新富町一丁目、2006.7.29撮影)
蔵の町並み

川越一番街・蔵の町並み
(川越市幸町、2006.7.29撮影)
埼玉りそな銀行

埼玉りそな銀行川越支店
(川越市幸町、2006.7.29撮影)

 近年「小江戸」川越を象徴する場所として一気に著名な観光地となった蔵の町は、緩やかに時を刻んだ重厚さそのままに、穏やかな輝きの中、堂々たる姿を見せていました。江戸期から明治にかけて、江戸と新河岸川の舟運によって有機的に結びつき発展してきた城下と町場の趨勢そのままに、通りに面した蔵造りの町屋1つ1つが美しく整えられています。重要文化財の大沢家住宅など、江戸期の町並みを髣髴とさせるどっしりとした蔵作りの建物が並ぶ一方、ルネサンス・リバイバル様式の流麗な建築とゆるやかなラインのドームが印象的である埼玉りそな銀行の建物など、モダンな建物も建てられていました。それらの近代建築の存在は、舟運が衰退した後も川越が商業都市としての繁栄を持続させてきたことを示しているようにも感じられます。
蔵造りの家々も決して画一的ではなく、例えば2階の窓の構造にしても、土格子造りであったり、観音開きの重厚な開閉窓が付けられたものであったりと、1つ1つの建物に味わいがあります。屋根のつくりも切妻、寄棟、入母屋とさまざまなタイプのものがありました。観光地域として一躍脚光を浴びた川越の蔵の町並みは、西に隣接する新河岸川に程近い「菓子屋横丁」と呼ばれる路地にも多くの観光客を呼び込んでおりまして、「小江戸」という粋なキャッチフレーズとともに、訪れる人々に昔懐かしい思いを伝えて、現代のまちのなかにのびやかに存立しているように感じられました。

 蔵の街の中にあって一際存在感を示す「時の鐘」は川越のシンボルとして親しまれる存在です。寛永年間(1624〜44年)に川越城主酒井忠勝が、城下多賀町 (いまの幸町)に建てたものが最初といわれているのだそうです。現在の鐘楼は、1893(明治26)年に起きた川越大火の翌年に再建されたものであるとのことで、 3層構造の塔で、高さ約16メートルの3層構造の時の鐘は、創建の時からおよそ350年間、 暮らしに欠かせない「時」を告げてきた町の揺ぎないランドマークでした。 現在でも鐘は1日に4回、蔵造りの町並みに音を響かせているのだそうです(市ホームページの説明を一部推敲の上引用)。

大沢家住宅

大沢家住宅
(川越市元町一丁目、2006.7.29撮影)


時の鐘
(川越市幸町、2006.7.29撮影)

 川越の町は、江戸期に繁栄した城下町あるいは商業地としての都市基盤を根付かせて、現代の大都市圏からの血流をたくみに受け取りながら、首都圏中枢部近郊の一大中心都市として、その魅力ある個性を花開かせました。ともすれば多くの都市や地域が大都市圏の中にあってその存立の大部分を大都市圏域の要である東京に依存して衛星都市化していく潮流にあって、川越はその流れを受けつつも穏やかな色彩を見せるまちであるように思います。その川越の姿を象徴する蔵の町並みは、膨張する現代都市の喧騒に佇みながらも、それらに寸分も埋もれることなく、昔ながらの懐かしい輝きを残してくれているようです。

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