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関東の諸都市・地域を歩く
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#19 シリーズ埼玉県北の都市群(4) 〜深谷・本庄の街道筋〜 利根川の南、武蔵野の広大な平坦地が続いていきます。起伏が少ない、平らな大地は、豊かな雑木林を身にまといながら、遥か彼方に連なる山並みのその足元までも達するかのようなスケールを感じさせます。流下する水路も多いほうではなくて、その河川はわずかにささやかな下刻を行うのみです。上武大橋で利根川を渡り、たどり着いた深谷市北部地域は、そんな広漠たる大地の中に、豊かな緑に囲まれた集落や広々とした畑地や水田が連続した、穏やかな景観を呈していました。名産のねぎ畑が広がる隣には、ブロッコリーややまといもなどの野菜もまた豊富に植えられていまして、大消費地を控えた近隣農業地帯としての深谷を感じさせます。たおやかなこの地域は深谷が生んだ大実業家・渋沢栄一の生家があります。付近には渋沢栄一記念館も建てられており、氏の偉業などについて理解を深めることができます。記念館から南東、日本最初の機械製煉瓦工場である日本煉瓦製造株式会社も渋沢栄一の手による事業所の1つで、敷地内の旧事務所や煉瓦焼成窯などが国指定重要文化財の指定を受けています。 深谷市役所の駐車場に自家用車を止めて、深谷の町歩きをスタートさせます。深谷は戦国期に城が築かれたこともあるなど(深谷城跡は現在の深谷小学校)戦略的な拠点であったようです。近世は中山道の宿場町として栄え、現在の市街地の礎が形成されました。通称で「中山道」と呼ばれる国道17号線は地図を見ますともともとの町割を貫くように市街地を通過していまして、それがその名のとおりかつての中山道の道筋ではないことが分かります。市役所前の交差点を南へ、JR深谷駅方面へと進みます。モダンな雰囲気を残す仲町会館の建物や、造り酒屋の煙突などが見える穏やかな町並みは、駅に向かうにつれて次第に高密になってまいります。大型スーパーをはじめ、マンションやホテル、商業ビルなどがゆったりと立ち並ぶ空間の向こうには、赤煉瓦が一際鮮やかなJR深谷駅がそのたおやかな姿を青空の下、輝いていました。深谷駅は1996(平成8)年に東京駅を模した橋上駅舎へとリニューアルされました。これは先にお話した煉瓦工場で生産された煉瓦によって東京駅が建築されたことを記念するものであるのだそうです。深谷産の煉瓦は東京駅のほか、帝国ホテルなどの明治期における東京の近代建築物の多くに使われたのだそうです。駅前の緑豊かな青淵(せいえん)広場には、渋沢栄一翁の銅像が鎮座します。「青淵」とは、栄一翁の雅号であり、生家の裏にあったという青々とした水をたたえている淵にちなんで、栄一翁のいとこである尾高惇忠が付けたとされます。深谷駅へは多くの人々が出入りしておりまして、東京近郊路線たる姿を見せる一方、その人の流れのどこまでが深谷の中心市街地を志向するのでしょうか。かつてのバスプール跡に溢れかえる自動車の多さも印象に残りました。
駅前を後にして、中山道(旧道)を西へ歩きました。現代の物静かな中心商店街の景観の中にあっても、蔵造りの町屋や重厚な観音開きの開閉窓を持つ商家、太い木枠の看板を掲げる商店などが点在しておりまして、深谷の町の往時を十分に感じさせます。モダンな雰囲気のファサードを持つ看板建築もあって、それらが現代の建物の中に違和感無く佇む町並みが連続していきます。深谷の町にはまた造り酒屋が複数立地しているのも特徴的です。それぞれに酒蔵の美しい風情や、煉瓦造りの近代的な容貌を見せておりまして、深谷の町の奥の深さをいっそう実感させました。旧道は田所町の呑龍院の小さなお堂の前でカーブを描き、かつての宿場町の西の端に至ったことを告げます。呑龍院の向かいには旧中山道深谷宿の常夜燈があります。宿場町の東西に立地する常夜燈は1840(天保11)年の建立で、4メートルの高さは中山道筋でも最大級であるとのことで、当時の深谷宿の活気を今に伝えているようです。 広大な田園の中、だだっ広いスペースのみに現代的な駅舎を向ける上越新幹線・本庄早稲田駅は日常の足のほぼすべてを自家用車に依存する現代のライフスタイルが凝縮されたような景観の中にありました。駅前だというのに商店は一切無く、駅レンタカーやコンビニエンスストアのみの駅舎の前には、自家用車等で溢れかえる空間が展開します。本庄早稲田駅から本庄駅に向かう途上は新興市街地らしく整った街区でした。跨線橋で線路を越えてタワー状の構造の市役所へ向かい、そこから本庄の町を歩き始めます。本庄も深谷同様中山道の宿場町として栄えまして、旅籠の多い繁華な町場を形成していました。本庄市役所のある一帯はかつての城跡です。本庄の地誌を説明するのに必ずといっていいほど登場するのが「武蔵七党」のひとつである武士団・児玉党一派の本庄実忠がこの地に本庄城を築いたことです。徳川氏の関東入国以降は家臣の小笠原氏が城主となり、発展した城下町が後の宿場町・本庄の礎となりました。小笠原氏が1612(慶長17)年に古河へ移封されますと本庄城は廃城となり、以後は幕府領の宿場町へと移り変わります。ゆったりとした深谷駅前とは対照的に少々窮屈な感じのJR本庄駅前の様子を一瞥した後、現在の県道勅使河原本庄線にあたる中山道の旧道を歩いてみます。
本庄駅入口の信号から西へ向かいますと、程なくして道の両側に建物が立ち並ぶ中心商店街へと行き着きます。元小山川の自然堤防的な、一段高い台地上に町並みが形成されています。付近の住居表示にも採用されている銀座通りが分岐する中央一丁目交差点付近が本庄における市街地の中心に当たるようですね。ここを要として、銀行の支店や郵便局などの金融関連機関が集積していることからもそれが窺えます。深谷ほどの多様性はないものの、土蔵や町屋などの昔懐かしい雰囲気を醸す建物も散見されまして、五街道の宿場町としての都市基盤を感じさせます。旧道から北の町並みの中を進みますと、県指定有形文化財である旧本庄警察署のモダンな建物があります。寄棟造りの本館の中央にアーチ状の吹き抜けの玄関塔を付加させた洋風建築は均整のとれた美しい建物です。現在は本庄市の歴史民俗資料館として活用されています。また、その入口には宿場町・本庄に2つあった本陣(街道を往来した大名や幕府役人などが宿泊した公用の旅籠)の1つ、田村本陣門(市指定文化財)が移築されていまして、レトロな雰囲気を演出しています。本陣は現在の中央一丁目6、埼玉りそな銀行の隣の位置にあったのだそうです。 そのまま穏やかな雰囲気の残る住宅街を市役所方面に戻り、旧開善境内の古墳の上に祀られているという愛宕神社と神木のケヤキの横を抜けて、市街地を散策していきました。元小山川方向に下る道路には、「石尊坂」や「不動坂」などの名前が付けられている場所があるようで、微高地に建設された宿場町の歴史を感じさせます。市役所の敷地を含む一帯は先にお話した本庄城跡となります。北を元小山川、東と南を久城堀(くじょうぼり)と呼ばれた沼沢地によってそれぞれ切断された天然の要害であった本庄城は、1700(元禄13)年、廃城後に実施された検地帳にその面積が記されています。現在の面積に換算しますとそれはおよそ3.4ヘクタールとなるのだそうです。 今回歩いた深谷と本庄の町は、共に近世以降国家の主要幹線道路たる「中山道」の宿駅として栄え、都市基盤を確立してきた歴史を持ちます。旧街道沿線にはその歴史を今に伝える事物が少なからず点在していて、往時を偲ばせます。そうした昔ながらの交通軸に、鉄道駅から派生した新たな都市軸が接続して、市街地構成が再編成された過程もまた、これらの町に共通する事象です。今日地方都市の多くにおいて中心市街地の空洞化が指摘されてかなり久しくて、深谷や本庄にとってもそれは決して他人事ではない問題となっているようです。巨大都市圏から日々送り込まれる血流たる鉄道網を通して新鮮な空気が送り込まれる余地が十分にある両市街地はその分だけ活力を維持しているようにも感じられました。 |
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