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関東の諸都市・地域を歩く
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#23 佐久山から大田原へ 〜那須野ヶ原の中心都市〜 佐久山は大田原市南部に位置する小さな町場です。栃木県北部に展開する原野「那須野ヶ原」の南を貫流する箒川の右岸、河岸段丘のつくる比較的深い崖の間のわずかな平坦地に取り付くような立地です。関東平野が那須野が原の扇状地上の地形へと遷移する喜連川などの地域では、多くの河川が帯状に丘陵地を浸食し、小丘陵と平地とが滑らかに連続する地形が認められました。奥州街道もそのような地表上を点在する宿駅を辿りながらそれらの丘陵地を縫うように進みます。それらのアップダウンの後、箒川のつくる段丘の下りに差し掛かるあたり、そここそ佐久山の宿場町が存在する場所です。佐久山を過ぎ、箒川を渡りますと地形は一転平坦な那須野ヶ原となり、中心都市大田原へと街道はほぼ直線的に進んでいくこととなります。 佐久山も喜連川と同様、奥州街道の宿駅であるとともに、要害を志向した城郭をその起源としているようです。佐久山城は那須資隆(すけたか)の次男泰隆(やすたか;那須与一の兄にあたる人物であるそうです)が1187(文治3)年に築いたものです。代々「佐久山氏」を名乗った家系は1563(永禄6)年に同族の福原氏によって滅ぼされるまで存続しました。佐久山城跡は御殿山公園と呼ばれます。町場を見下ろすように佇む実相院にはこの福原氏の墓所があるのだそうです。山門は、付属する説明表示によりますと、和唐折衷の四つ脚門で、屋根に矢板市平野産の石が用いられ、佐久山宿の数度の大火にも類焼を逃れたため、当時の姿をそのままに伝えているものであるのだそうです。現在の佐久山は町場としてはかなり規模が小さくなって、往時を感じさせる事物もそう多くはない印象です。こうした歴史のある町場がその雰囲気をも喪失してしまう過程はなんとももったいないような気もいたします。町場の西に穏やかな景観を作り出している酒造元も現在は操業をしていないようです。集会所の名前に「下町」や「上町」などの名前が見えます。町場としての歴史を大切にしながら、佐久山の伝統が承継されることを切に望みたいと思います。
箒川を越えますと、那須野が原の只中へと至ります。滝沢神社の不動滝を見た後、親園地区の農村景観の中に重厚な民家が点在するエリアを北へ、大田原の市街地へと進んでいきます。周辺は折りしも実りの秋を迎えて、水田をたなびくような黄金色の穂波が揺れて流れていきます。これより上流部では荒地が卓越する那須野ヶ原も、このあたりに来ますと扇状地の扇端部となって、伏流していた水が湧き出してきます。豊穣の大地はこのような地形的特質と無縁ではないのでしょう。そして、この地域における中心都市である大田原の市街地がこの場所に位置していることともあるいは関係があるのかもしれません。程なくして、農村的な景観は次第に都市的な様相へと変化していき、大田原の町並みの中へと街道は進んでいきます。 街道筋は神明町交差点に至りますと国道461号線のルートを辿り東へ、蛇尾橋へと続きます。この神明町交差点は大田原における新旧の市街地を分けているポイントのような位置にあるようで、これより北は市役所方面へ続く郊外型店舗などが卓越するエリア、西は那須塩原市の西那須野地区方面へ連接するエリアとなり、自家用車や鉄道交通を志向した現代的なエリアとなるのに対し、交差点から東は大田原における伝統的な中心市街地を形成するエリアとなるといった対比です。自家用車を駐車しやすい市役所を目指した都合もあり、大田原市役所から市街地の北側をめぐりながら大田原城址方面を概観後、奥州街道筋をたどり神明町交差点へ、そこから北へ向かって市役所へ戻るという散策ルートを設定しました。現在の市役所は中心市街地から見て西のはずれともいうべき位置にあって、市民体育館や総合文化会館なども近接していることから、公共施設の集まるエリアとすることを企図して、中心市街地から市役所を現在地に移転させた結果であると考えられます。郊外型の店舗が集積する市役所入口交差点の丁字路を東へ、日赤病院方向へ進みます。地図をみますと現在の「トライアル」のある場所へ向かって西北西から東南東方向になめらかな街路が市街地に入ってきている様子を見て取ることができます。実際にその場所に行って見ますと、日赤病院付近のその街路に、「ぽっぽ通り」と掲げられたアーチが作られて、それより西側は歩行者用道路として整備されていました。この遊歩道は1968(昭和43)年12月まで営業をしていた東野鉄道の廃線跡を利用したもので、「トライアル」の場所はかつての大田原駅があった場所であるのだそうです。ぽっぽ通りはこの鉄道が分岐していたJR西那須野駅付近から大田原の市街地までの区間に整備されています。
「トライアル」店舗北の、廃線跡を受け継ぐ市道を進みながら、大田原城址方面へと進みます。光真寺の門前を過ぎ、秋祭りの神輿が境内に奉納されていた大田原神社の石段を登って市街地を緩やかに俯瞰した後、蛇尾川右岸の高まりに位置する大田原城址へと向かいました。土塁がよく残る城跡は、大田原城の別称である龍城の名前から、「龍城公園」として市民に親しまれています。大田原城の開城は1545(天文14)年。地域の豪族を祖とする大田原資清によって築かれ、藩政期を経て、明治の廃藩置県によって廃城となるまでの326年間、大田原市の居城として使用されてきた由緒を持ちます。たくさんのソメイヨシノが植えられ、季節には多くの花見客で溢れるのでしょうか。 城跡を後にし、奥州街道筋を基礎とする国道に入り、西へ歩みます。穏やかな市街地の中を進みますと、やや鉤の手状になっていたものを現代の交通体系に合わせて十字路の形態に調整したような恰好をした交差点-金灯篭交差点-へと至ります。ここは奥州街道筋と荒町通り(中央通り)とが交差するまさに大田原市街地の中心といえる場所でして、交差点の西隅にはその名の通りの大きな金灯篭が設置されています。灯篭は1979(昭和54)年につくられらものです。昔の灯篭は戦時中に供出されたのだそうです。しかしながら、道標の役割を果たしている台座自体は歴史があるようで、1819(文政2)年のものであるのだそうです。金灯篭はこの交差点周辺を指す地名としても通用していまして、江戸期における大田原神社の4月に行われる例大祭で、大田原藩の神輿を奉納した7町内の当番町が引き回したのが起源といわれる大田原屋台祭り(さくら祭)の際には、「ぶっつけ」と呼ばれるお囃子の競演が行われる会場ともなる金灯篭は、名実ともに大田原の町の中心であり、顔であり、人々にとって大田原が有数の町場であることへのアイデンティティそのものであるともいえるのでしょう。 金灯篭を後にして、旧街道筋を進みますと、突き当たりに薬師堂があります。1793(寛政5)年創建の薬師堂は市文化財の七重塔や舎利塔があることで知られます。薬師堂より神明町交差点までは道路は緩やかにカーブをとっていまして、この部分がかつての宿場町(城下町も兼ねたでありましょう)における西の守りの位置にあって、鉤の手状に区画されていたことを予感させます。近年は鉄道を擁する西隣の那須塩原市(黒磯・西那須野)の成長に伴って、大田原は相対的にその中心性が変容している感があるのは否めません。しかしながら、行政面や文教面等において、大田原が那須野ヶ原に占める拠点性の大きさは根強い凄みを持っているのも事実のようです。金灯篭の誇らしげな輝きに、大田原の都市としての未来を見たような気がいたしました。 |
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