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関東の諸都市・地域を歩く
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#24 那珂川流域の都邑を行く 〜黒羽、佐良土、烏山をめぐる〜 栃木県北部を緩やかに貫流する那珂川は、八溝山地の西側をゆったりと流下して太平洋へと注いでいきます。氏家と喜連川の間の穏やかな丘陵地は、水系としてみれば利根川のそれと那珂川のそれとを分かつものとなり、上流の塩谷町付近では両水系が大きな地形的な障壁もなくわずかな距離で密着するエリアもあって、ちょっとの差でも水の行き先が大きく変わってしまうようです。本稿は那珂川を軸として個性的な町場が連続するこのエリアをめぐった記録です。那珂川の流域にかつて存在してきた那須郡下の町村はいわゆる平成の大合併を経て大きく再編成されています。合併を経験しなかったのは県北の那須町のみで、黒羽町と湯津上村は大田原市となり、小川町と馬頭町は合併して「那珂川町」となり、また烏山町は西接する南那須町とともに合併、市制施行し「那須烏山市」となっています。 大田原の市街地から東へ、国道461号線のルートを黒羽方面へ、のびやかな田園風景の中を車を走らせます。黄金色の水田は収穫の時期をまさに迎えていまして、彼岸花の真っ赤な花の鮮やかさもあいまって、極上の輝きに溢れていました。周囲が緑地保全地域に指定される那須神社は、杉木立に囲まれた静かな環境の中に佇みます。歴代の那須氏の崇敬が篤かったという那須神社は、仁徳天皇(313〜399年)時代の創立、延暦年中(782〜806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられているのだそうです(大田原市ホームページ説明より一部推敲の上引用)。三間社流造の社殿と三間一戸入母屋造の楼門は栃木県指定有形文化財です。
黒羽は八溝山地の西裾を洗うように広大な河床を広げる那珂川の両側に町場を形成していました。大田原からの道程にはさしたる起伏はなくて、川の両岸には穏やかな緑で覆わせた河岸段丘崖が豊かな景観を作り出していました。黒羽の町の基礎となった黒羽城跡は川の東、那珂川に北東から流れ込む支流の松葉川の合流する川口の内側の高まりにあります。このため、城の西側と東側は急崖となり、自然の要害としての条件を備えた典型的な山城です。1576(天正4)年に、那須衆の一派であった大関高増が築いた黒羽城は、江戸期も藩として領地を維持し続け、明治維新まで存続しました。黒羽城跡からは繁茂する木々の向こうに、那珂川の氾濫原にたなびくように展開していく黒羽の市街地が穏やかに眺望されました。 黒羽の市街地は城のある左岸(東岸)よりも右岸(西岸)により集中的な町場が形成されているのが特徴的です。那珂橋西詰付近を中心に蔵造りの町屋が多くありまして、古くからの市街地としての雰囲気を残しているのがたいへん印象的でした。足利銀行黒羽支店の建物は、とりわけ重厚で、歴史を感じさせる風合いの建造物です。国の有形登録文化財に指定される建物は、驚くべきことに、銀行の店舗として現役で利用されています。旧黒羽銀行の建物として明治末期頃に市街の中心部に建てられたこの建物は、寄棟造、桟瓦葺の2階建てです。2階部分の窓が黒漆喰塗の観音開きでどっしりとした構造になっていることや、大谷石積の張出しと玄関ポーチとを備えています。他にも土蔵や町屋などの歴史を感じさせる事物が随所に残る黒羽の市街地は、爽快な水音を立てて流れる那珂川の流れに寄り添いながら、昔を静かに語っているようでした。 黒羽市街地から那珂川西岸を南へ、たおやかな農村地帯を進みます。八溝山系のなめらかな稜線や那珂川のゆったりとした流れに隣り合いながら、どこまでも爽快で、屈託のない景観が続いていきます。日本三大古碑のひとつとして知られる那須国造碑を祭神として祀る笠石神社を拝観した後、佐良土(さらど)地区へと至ります。ここは「屋号の町」として知られていまして、家々にそれぞれの屋号を記した看板が設置されています。佐良土は光丸山法輪寺の門前町として町場を形成してきた地域で、古くは奈良時代に整備された東山道の宿駅として都市的集落の基盤が形成されていた場所であったといわれています。1989(平成元)から1992(同4)年にかけて、県営事業の指定を受けたのを機に地域コミュニティ連絡協議会を発足させ、門前町並みが残る、佐良土地区内の古宿、田宿、仲町、銀内の各地区に合計149基の屋号看板の設置がなされたものであるのだそうです。光丸山の穏やかな佇まいのもと、門前町としての雰囲気を濃厚に感じさせる佐良土地区の景観に、屋号の看板はしっくりと馴染んで、特徴的な風景を構成しています。
烏山は喜連川の町並みをかすめていた荒川が那珂川に合流する地点のやや北方の台地上の町です。塩那丘陵(塩谷郡と那須郡にまたがる丘陵地というニュアンス)南の縁にあたる西の山上に烏山城跡があります。中世の山城から近世の城下町が派生し、現代に至る構図は喜連川や佐久山、大田原などと同様ですね。市街地は仲町交差点を通過する南北の通りを主軸として展開していまして、中央交差点にて東西に連なる道路は比較的最近拡幅・整備された幹線道路であると思われました。仲町交差点から東へ進みますと、那珂川のレベルと比べて、烏山市街地が乗る台地との比高が思った以上にあることが実感できます。地形図で標高を読み取りますと、その標高差は約10メートルはあるようです。仲町交差点から東へ、宮原八幡宮方面に至る帯状の市街地は那珂川の蛇行部分に向かって切り立つように続く崖の上にあるという感じです。このような切り立った崖上の平坦地という地形的な特質は、ここに市街地が形成された要因のひとつであったことでしょう。 山あげ大橋の南詰から旭交差点を経て新道を市街地方面に戻り、JR烏山駅方向へ、主軸たる南北のメインストリート(国道294号線)を進みます。新道と旧道が接していて、大型店が比較的中心市街地と連接した位置にあることも影響しているためか、市街地は比較的まとまっていて、均衡ある町場を形成しているように思います。商店街を東に入ったところにある「山あげ会館」は、烏山で毎年7月に盛大に実施される「山あげ祭り」を紹介する施設です。祭りに使われる屋台の展示やミニチュア屋台による祭りの再現コーナー、映像による紹介ブースなどがあって、野外歌舞伎劇とも言われる山あげ祭りの実際に触れることのできる施設であるとのことです。市街地の南端、中心市街地の軸に重なるように、JR烏山駅がありました。烏山は新旧街路の配置や市街地のコンパクトさ、駅の位置などがバランスよく組み合わされて、現在の比較的密度の高い市街地を構成するに至っているように感じられます。土蔵や昔ながらの町屋が残る中にあって商店が連なり、空き地が相対的に少ない市街地の姿に、町並みの奥行きのようなものを感じさせる、町であるようでした。 |
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