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関東の諸都市・地域を歩く
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#32 松井田から安中へ 〜中山道の空気に触れる〜 京と江戸とを結ぶ内陸の主要幹線道路であった中山道は、関東平野の只中を進んだ後、上州より西へ折れて、山間部へと向かっていきます。1997(平成9)年10月、北陸新幹線(長野新幹線)開業に伴い廃止されるまでは、鉄道さえも急勾配に備えるために機関車を連結していた碓氷峠は、中山道中随一の難関であったといいます。その峠にむかって、街道は徐々に勾配を上げながら続いてきます。 峠の名前と同じ碓氷川の流域に当たる旧碓氷郡のエリアは、長らく西側の松井田町と、東側の安中市の1市1町体制が続いてきました(一部隣接町村の一部となった旧郡域もあります)。今般の平成の大合併によりこの2つの市と町は対等合併し、新たな「安中市」がスタートしました。群馬県西南部、群馬県内では「西毛(せいもう)地域」と呼ばれるエリアの一大中心、高崎の市街地に達した中山道は、西へ折れて、高崎市内、安中市内を経て碓氷峠へと至ります。とはいえ、松井田の名前も十分すぎるほどの知名度を持っていますから、その範囲も含めて安中市になったというのも群馬県民の私としてはまだ十分になれていない面もありますね。
国道18号線の旧道を分け入りますと、山中に煉瓦でできたアーチ状の遺構を見つけることができます。これは「めがね橋」と呼ばれるもので、旧碓氷線の鉄道敷として使用されていたものです。めがね橋は峠へ向かう谷間の上を傾度をつけながら、一気に駆け上がるような姿をしていました。難所に挑んだ先人の努力がしのばれるようです。国道として供用されている部分は谷筋の斜面を縫うように進む新道で、旧中山道は北側の尾根筋を進んでいます。昨今の旧街道ウォーキングブームで、この険しい山道を歩む人も多いようです。 めがね橋から東へ、急なヘアピンカーブを下りますと、視界が急に開け、直線の道路沿いに豊かな町並みが広がるエリアへと出ます。中山道の旧坂本宿の家並みです。中央に国道18号の広い道路があるために開放感のある印象の町並みは、家々が軒先に屋号を掲げていまして、坂本宿の往時を感じさせています。正面に妙義山の奇岩に溢れたシルエットを望む坂本宿には、峠道の手前の最後の宿場であったことから、山越えの支度を整えるため、あるいは休息をとるため、多くの逗留者があったことと思われます。その賑わいは「雨が降りゃこそ松井田泊まり、降らにゃ越します坂本へ」という馬子唄にうかがい知ることができます。町の両端にはそれぞれ木戸が設けられていたようで、それぞれの位置には木戸をモチーフにしたモニュメントが設置され、「中山道 坂本宿」の文字が書かれていました。坂本の町を後にし、現在の鉄道の最終地点、横川へ向かいます。横川駅では峠越えのために列車は必ず停車し、機関車を連結、あるいは峠を越えてきた列車の機関車の切り離しが行われていました。その風景は、現在「碓氷峠鉄道文化むら」の諸施設のなかに、残像を垣間見ることができます。その時間に名物駅弁「峠の釜飯し」を買い求めるという風景は、もはや過去のものとなりましたね。「峠の釜飯し」を売る「おぎのや」は、現在でも横川駅前に本店があります。横川の町並みも味わいのある雰囲気で、当地に設けられていた関所跡の遺構とともに、街道の華やかかりし当時を感じさせる容貌を呈していました。
松井田の市街地を一瞥しながら東へ自動車を進め、原市地区の「安中杉並木」を確かめながら、安中の市街地へと向かいました。バイパスとして市街地を迂回する国道18号線と旧中山道との中間に位置する市役所に駐車し、安中高校北の街路を東へ歩き始めます。安中の町場は、碓氷川の左岸、支流の九十九(つくも)川とに挟まれた河岸段丘に位置します。市街地は平坦ではなく、北へあるいは西へ、緩やかに坂を上る格好となっています。安中高校北の街路からは、碓氷川に向かって下っていく地勢が容易に見て取れます。江戸期には「安中藩」が置かれたこともあり、このエリアには旧安中藩武家長屋や旧安中藩郡奉行役宅など、藩政期を記録する事物も残されています。さらに東には、 1911(明治44)年に建築された旧碓氷郡役所の建物も現存します。旧郡役所としては群馬県で唯一というこの建物は、近代以降もこの地域の中心都市として中心性を維持してきた安中の町の歴史を今に伝えています。 旧郡役所前から段丘崖の坂を下り、旧街道筋へ出て、町屋や土蔵などが豊かに残る安中の市街地を歩きました。旧郡役所下あたりの街灯に「伝馬町」の文字が掲げられていました。西へ向かい、「谷津」、「上野尻」などといった地名を確認することができました。市街地は概して人通りが少なく、中心市街地としての中心性は相対的に小さいものであることは、今日多くの中小都市が瀕している状況であるといえます。しかしながら、中仙道という藩政期における一大幹線道路上に位置してきた町の雰囲気は随所に感じられました。蔵造りの建物が多く残されていることは、この町の歩みを今に伝え、かつ中山道の宿場町としての記憶をとどめる貴重な景観的要素となっていると感じられます。このような風景の特徴は、この地域における旧宿場町(坂本、松井田、安中、そして板鼻など)に共通していまして、このエリアにとってまさにかけがえのない遺産であるといえるでしょう。市役所へ戻る帰路、市街地の家並みを南に分け入り、新島襄旧宅を見学しました。現在の同志社大学の前身、同志社英学校の設立者として知られる新島襄は、安中藩家臣の子として生を受けています。 |
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