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関東の諸都市・地域を歩く
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#33 川崎市街地を歩く 〜歴史と輝きに満ちた工業都市〜 2008年2月現在、日本の政令指定都市では最も面積が小さい川崎市。神奈川県東部に大きな範域を広げる横浜市と東京都の間に押しつぶされているかのような市域を地図で初めて見たときは新鮮な驚きがありました。その後の川崎のイメージは、京浜工業地帯の一翼を担う工業都市としてのイメージと、横浜と同様、東京の副都心に直結する郊外の住宅エリアの交錯する首都近郊の都市、というものでありました。いわゆる「五大都市」と呼ばれた諸都市のうち、特別区の位置づけとなった東京を除く、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸を対象としていたと思われる政令指定都市(1956年)にあって、川崎市は大合併による指定となった北九州市(1963年指定)に次いで指定を受けました(1972年)。同時に指定を受けた札幌と福岡が地方拠点都市であったのに対し、川崎が大都市圏内の都市であったことは、その後の人口構造の動向(大都市圏と地方主要都市への人口集中)を示唆するものであったといえるのかもしれません。
ソメイヨシノも開花し、満開間近であった2007年3月26日、JR川崎駅に降り立ちました。月曜日のこの日、行き交う人の流れも激しくて、活気ある駅の風景が見られました。川崎駅西口は東芝や明治製菓などの工場の跡地が大規模に再開発され、音楽ホールと高層オフィスビルからなる「ミューザ川崎」(2003年12月竣工)や、ショッピングモールである「ラゾーナ川崎プラザ」(2006年9月開業)が次々に誕生し、大きくその景観を変えたことはよく知られていますね。ラゾーナ川崎プラザに隣接して高層マンションである「ラゾーナ川崎レジデンス」などをはじめとした高層マンション群も威容を見せ、府中街道を挟んで東側には「かわさきテクノピア」として70年代後半より再開発構想が進捗してきたエリアが連続します。商業ビル「ソリッドスクエア」(1995年竣工)に代表されるビル群は、川崎駅西口の再開発の端緒となりました。これらの施設は歩道橋などでJR川崎駅と相互に連接し、またバスプールも設置されて、交通の利便性も配慮されています。
西口の再開発地区を一瞥しながら、人通りの絶えない駅の東西通路を通り、東口方面へ向かいます。駅ビルである「川崎BE」や各種デパート、地下街「アザレア」が集積する駅前は、人も車両も絶え間なく歩道と車道を埋めていました。南にはシネマコンプレックスとショップやレストランなどが複合された商業施設・ラ・チッタデッラもあります。市役所通を東へ進みますと、歩道には花壇やポットがふんだんに植栽されていまして、春の穏やかな陽射しに色とりどりの花々が輝いています。商店街や行政が一体的に進めている花いっぱい運動の成果であるようでした。ほどなくして到達する「銀柳街(ぎんりゅうがい)」のアーケードのファサードにも、「花とステンドグラスのある街」と掲げられていました。その一方で、歩道の車道寄りのスペースは自転車等駐車場として自転車を置くことができるようになっている一方で、店舗よりの本来は歩道として供されるべき位置にも放置自転車が相当数認められまして、歩道を歩きにくい箇所も見受けられました。低平な川崎市街地の足として自転車が多用されているであろう現状を考えますと、改善の余地もありそうな光景ではありました。 砂子交差点で交差する道路が旧東海道筋にあたるようでした。片側一車線の街道筋は、現在では雑居ビルなどが立ち並ぶ市街地の只中の道路然としており、随所に配置された「旧東海道」と刻まれた石碑や各種の説明表示などを除けば、往時を想起させる事物にはほとんど出会うことはできません。公的な文書の輸送業務に携わった飛脚などの業務の利便を確保するために人足や伝馬を常備していた「問屋場(といやば)跡」や、下本陣と呼ばれた「田中本陣跡」(養子の田中休愚は、川崎宿復興に尽力し、その功労が幕閣の目に留まり幕府の勘定支配格に登用され、宝永噴火後の小田原藩・酒匂川治水に活躍した人物として知られます)などがそれです。川崎宿はいわゆる東海道五十三次の中では最後に正式な宿場となりました(1623年;元和9年)。多摩川に隣接する地勢は水害を被りやすいことから、宿駅設置に当たってはも盛り土が施され、また道路も極力微高地を選定したといわれています。ごく初期には架橋されていた六郷橋はほどなく流されてしまい、1883(明治16)年に六郷橋が再び架橋されるまでは六郷の渡しの渡河点としての役割も担う町場でした。第一京浜に程近い稲毛神社南の公園には、大正14年にかけられた旧六郷橋の親柱が再現されています。
川崎宿は、その後関東大震災や空襲、工業化や都市化に伴いその様相を宿場町から現代都市へと大きく変貌させてきました。旧東海道筋周辺の風景は、そんな川崎が移り変わってきた歴史をそのまま体現しているかのようです。その市街地を東へ進み、第一京浜(国道15号線)へ。工業都市・川崎を支えてきた大動脈は、今日でも多くの車両が通過していきます。第一京浜によって川崎駅前の繁華街は一応の区切りが付けられ、徐々に住宅地域や文教・公共的な地域へと遷移していくように感じられます。宮前町交差点上にはモニュメントやエレベータなどが設置された歩道橋がつくられていまして、周辺の市街地を一望することができました。臨海部へ向かって工業都市としての色彩が強くなるというよりは、中低層のマンションなどが連続する穏やかな住宅地域といった雰囲気がしっくりくるような風景です。教育文化会館や図書館、体育館、川崎競輪場が立地する富士見公園の傍らに置かれていた「プラネタリー熱間圧延機フィードロール減速機用歯車」のモニュメントが、工業地域としての川崎を物語っていました。圧延機とはステンレス鋼板を薄く延ばす工作機械で、この巨大な歯車はその機械の部品の一部であるとの趣旨の説明版が設置されています。 川崎港方面へ続く富士見通り(国道132号線)をさらに東へ進んでいきます。周辺は引き続き穏やかな住宅地域の様相である一方、大型車両が通過したり、町工場的な事業も立地し始めたりと、徐々に工業地域らしさも認められるようになります。工業地域化を受け職住一体的な地域となった後、徐々に大都市圏における住宅都市化の波に洗われて、住宅地域化してきた地域の変遷が垣間見られるような風景でした。多くの市民が憩う大師公園を通り、川崎大師の名で知られる平間寺へ。多くの初詣客を集める寺院として著名な川崎大師にお参りし、賑やかな雰囲気の門前商店街を通り、川崎大師駅から電車で京急川崎駅まで戻りました。多摩川の土手を経てテクノピアの威容を再び確認し、川崎のフィールドワークを終えました。
現在136万人あまりの人口を擁する川崎市も、終戦の1945(昭和20)年当時の人口は18万人あまりに過ぎませんでした。その12年後の1957(昭和32)年には人口は早くも50万人を突破、1973(昭和48)年には100万人に達します。人口急増の要因のひとつに工業都市としての目覚しい成長があった一方で、それは同時に公害という負のイメージをもたらしました。高度経済成長期以降の川崎のまちづくりは、そうしたネガティブなイメージから脱却し、住みやすい環境に満ちた、現代的な都市の想像に意を注いでいたようにも感じられます。今日川崎の町を歩きますと、そうしたイメージはほとんど感じられず、そこには輝きに満ちた現代都市としての川崎の町が展開しています。他の多くの都市の例に埋没することなく、ものづくりと歴史に溢れた川崎が特色として見えてくるような地域性の創出を期待してみたくなります。 |
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