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関東の諸都市・地域を歩く
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#34 浦安散策 〜首都圏に隣接した地域の今昔〜 桜満開の春の陽気の下、JR新浦安駅に降り立ちました。東京駅に直結するJR京葉線の開業は1988(昭和63)年。東京に交通至便なエリアとなった駅周辺は、目覚しく変貌を遂げています。開放的な空間にホテルや複合商業施設の建物が屹立した現代的な都市空間がそこにありました。人工的な建物によって覆われているものの、埋立地ならではのとにかくゆったりとしたスペースが手伝って、過度にぎすぎすした風景ではなく、適度に配置された緑を取り込んだ、たいへん穏やかな景観としてまとめられているという印象を受けました。その反面、低平な土地柄を反映してか、駅周辺は自転車で溢れかえっており、放置自転車対策に難渋している現状が見て取れたことがやや気がかりでした。
枝の先に若葉が芽吹き始めたけやきの木立の下、車道と歩道との間にたっぷりと緑地空間が確保された広大な街路を進んでいきます。浦安市は、旧江戸川河口部の低湿地の埋め立てを進めて、市町村合併を経ないままその面積を約4倍にまで拡大してきた「埋立地の街」です。市内の地域区分は埋め立ての時期によって、元来からの区域を「元町」、1975(昭和50)年頃までに埋め立てられた区域を「中町」、以後に埋め立てられた区域を「新町」と、それぞれ区分する習慣があるようです。新浦安駅周辺の美浜地区や入船地区はこれらのうち「中町」にあたり、JR京葉線開業によって良好な住宅供給地となり、多くの中高層のマンションが林立するエリアとなっています。 松並木が穏やかな歩道をさらに東へ進み、新町地区へ歩を進めました。中町地区と新町地区の境界をなす街路は、道路部分の外側にかなりの広いスペースが残されておりまして、埋め立て時期の違いによる不連続性の一端を実感させるようでした。中町地区の埋め立てが完了した後に岸壁に作られた防波堤が、その後に新町地区の埋め立てが進んだにもかかわらず残されているのも特徴的です。日の出、明海、高洲の3地区からなる新町地区は、「浦安マリナイースト21」と呼ばれるマンション群が目を引く新興のエリアで、北から順に海風の街、夢海(ゆめみ)の街、望海(のぞみ)の街、海園(かいえん)の街、潮音(しおね)の街と通称される団地群が展開しています。海岸部にはホテルが多く立地し、まだまだオープンスペースを残しながらも、日々成長しているエリアとの印象を受けました。
新浦安駅へ戻り、桜並木が美しい境川方面へ向かいます。境川は浦安市のほぼ中央を南北に流下する旧江戸川の支流で、浦安の旧来の集落である猫実地区と堀江地区の境を流れることからその名があると説明されることが多いようです。川に接する若潮公園に植えられた桜もまさに見頃で、休日の午後のひと時を過ごす多くの市民で溢れていました。公園の南西隅に「浦安町漁業記念碑」があります。魚や貝が散りばめられた台座の上に船が載せられたかわいらしいデザインのこの碑は、およそ800年にわたる浦安の漁業史を長く後世に伝えるために、1976(昭和51)年に建立されたものなのだそうです。船はこの地域で主に海苔や貝採りなどの漁労に供するために使われてきた木造の小船、「べか船」を模したものです。山本周五郎の小説「青べか物語」にある「べか」です。漁業の町として長い歴史を刻んできたことを記念すモニュメントも、碑にしがみついたり滑り降りたりする現代の団地の子どもたちの「遊具」のひとつとなっているようでした。1971(昭和46)年に浦安では漁業権を全面的に放棄しており、産業としての漁業は完全に過去のものとなっているようです。 境川は、そんな漁業の町としての浦安の原風景を残すシンボル的な存在です。桜並木が美しい現代の住宅地域を過ぎ、高速道路の下をくぐって市役所付近に至ります。その間も境川には小型の釣り船などの船舶が多く係留されていたのが印象的でした。境川の川辺の空間は、都市の中の穏やかなウォーターフロントとしてさまざまな表情を見せていました。すなわち、新町や中町地域では散歩道や並木道が整えられた快い散策路として多くの皆さんが歩いていらっしゃいましたし、また元町地域では上述の漁師町としての浦安の風情が息づいているようでした。市役所のあるあたりから埋立地由来である中町地域から旧来の町場の立地した元町地域へと移り変わります。周囲の住宅地域の道路のようすや土地の区画の様子や、より古い民家が混じるようになるなどの景観的な変化も見て取れます。
大三角線と呼ばれる幹線道路を越えますと、浦安の旧市街地の雰囲気がより濃厚になってまいります。大三角線が境川を渡る江川橋から境川の上流と下流の景観を比べますと、その違いが理解されます。下流方面(南側)は煉瓦で堤防を覆った散策路が設けられて現代的な水辺空間となっているの対し、上流方面は散策路も無く、川に住宅が迫るような景観で、昔日の浦安の町並みのエッセンスが感じられる眺望となっています。橋にはべか船のモニュメントも設置されていました。創建が1157(保元2)年にまで遡るという浦安で最も古い神社である豊受神社はまさに満開の桜に囲まれて鎮座し、樹齢が350年を超えるといわれている大銀杏とともに、変化の著しい衛星都市・浦安を見つめてきました。19世紀中葉(江戸時代末期)に建築された木造漁家である旧大塚家住宅や、1689(明治2)年建築の商家で、年代の特定できるものでは浦安最古の民家である旧宇田川家住宅などの古い歴史を持つ民家も現存しています。旧宇田川家前の説明表示によると、当初は米屋 油屋 雑貨屋 呉服屋と 商家として使われた後、郵便局や診療所、住居などとして利用されてきたとのことで、同建物は幕末から明治にかけての江戸近郊の町屋の形をよく伝えている、ということであるようです。 昔ながらの商店街であるフラワー通りの様子を一瞥しながら、境川の取水口付近を経由し、東京メトロ東西線の浦安駅へと進みました。地下鉄が旧江戸川をまたぐ江戸川第一橋梁に程近い水門付近は、浦安橋が完成(1940年/昭和15年)するまで川の両岸を結んでいた渡し舟の渡し場があった場所です。水門からは境川の流れが始まります。境川は元来は全長1.7キロメートルほどであったものが、埋め立て事業によりぐんぐんと長くなり、現在では約3倍の4.8キロメートルにまでなっているのだそうです。現在では想像できないほど多くの小舟でびっしりと埋まっていたという川には、現在でも周辺に船宿が多いことから十数艘の船がもやってあり、旧漁師町・浦安らしい風景を見ることができました。折りしも満開の桜の花びらがはらはらと散って、波穏やかな川面へと舞い降りていました。
東京メトロ(当時は営団地下鉄)東西線浦安駅は1969(昭和44)年3月に開業しました。周知のとおり、東京に近接しながら交通手段に乏しく陸の孤島のような状態であった浦安が、ベッドタウンとして急成長していく端緒となりました。駅周辺は狭い駅前広場に覆いかぶさるような中低層の商業ビルなどが立ち並ぶ、密度の高い市街地が形成されています。その市街化はその後境川の流れに沿うように沿岸部へ急激に拡大し、埋立地を続々と誕生させていきました。1950(昭和25)年の国勢調査で約1万6千人であった浦安の人口は、地下鉄開通直後の1970(昭和45)年までの20年間で約2万2千人と5千人あまりしか増えなかったのに対し、さらにその20年後の1990(平成2)年には約11万5千人と、およそ5倍の人口にまで膨れ上がりました。境川の風景の多様な姿は、あまりに急激だった浦安の地域の変貌のまさに縮図と言えます。 |
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