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関東の諸都市・地域を歩く
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#35 下野市を行く 〜田園風景に歴史が重なる地域〜 2006(平成18)年1月10日、栃木県の南部、河内郡の南河内町と下都賀郡の石橋町・国分寺町が合併し、新しい市である「下野市(しもつけし)」が誕生しました。人口は約6万人、面積は75平行キロメートルほどであるとのことです。人口密度では1平方キロメートルあたり800人ほどとなり、データ上では東京大都市圏外縁部としては比較的人口がまとまっているといえると思われます。 地勢的には県都宇都宮と県内第二の都市で交通の要衝である小山の間に位置して両地域からの影響を受けるほか、東京からJR宇都宮(東北)線沿線に沿ったセクターに包摂されるといった位置関係にあります。北から南へ流下する思川や姿川、田川などの河川が浅い谷を削る洪積台地が広がる穏やかな地形に市域が展開しています。緩やかな河川が浸食する谷地は水田として利用され、台地上は畑や集落などの土地利用が認められます。思川と姿川とに挟まれた微高地に、下野国分寺跡と国分尼寺跡の史跡があります。思川を挟んで西側、栃木市域には下野国庁跡もあり、古代下野国の中心的なエリアであったことが窺われます。付近は史跡公園である「天平の丘公園」として整備されておりまして、豊かな緑に囲まれた現代の公園となっています。下野市の市名もこれらの歴史的資産の存在に由来するものであるのでしょう。
ところで、この下野(しもつけ)という国名です。現在の栃木県に相当するエリアを持つ旧国名です。群馬県に相当する上野(こうずけ)と対になるこの地名は、両国あわせて「毛野(けぬ)国」であったことに由来します。毛野国は後に「上毛野(かみつけぬ)」と「下毛野(しもつけぬ)」に分かれて、漢字と読みがそれぞれ省略され、変化して、「上野(こうずけ)」「下野(しもつけ)」となりました。史跡ゾーンの周辺は田園風景がたゆたうように続いていまして、屋敷林を背負った集落が点在する風景もまたたいへんにさわやかな印象を受けます。旧日光街道に沿って成立した小金井や石橋の宿場町を基礎とした都市軸や、JR東北本線に沿って発達した現在の都市地域が輝きを放つ一方で、それらを取り囲む美しい田園風景もまたこの地域にとって貴重な存在であるように感じられます 国分寺を中心とした史跡ゾーンから東へ進み、広大な水田の広がる地域を進み、豊穣の作物を生み出す畑を越えて、木々の穏やかな集落を通り過ぎて、下野という歴史を感じる自治体名を背負った地域を軽やかに進んでいきます。東北線や国道4号沿線の都市地域は歩道や街路灯などがゆったりとしたスペースに配置された現代的なプロムナードが整えられているところもあり、JR石橋駅前は駅前にある教会を思わせる尖塔がたいへんに印象的で、商店街に立ち並ぶ街灯もこの尖塔をイメージしたものに統一されていました。
国分寺エリアから石橋エリアへと進み、線路を越えて東へ進みますと、旧南河内町の地域となります。旧街道筋(国道4号)や東北線などの主要幹線からやや東へ離れた穏やかな地勢のこのエリアも、自治医大の立地や、新国道4号などの開発によって、所々では徐々に都市化が進行しているようです。東を流れる鬼怒川へ向かって緩やかに展開する緑の多い地域は、結城方面への交通路ともなっています。その県道に面して、かつて下野国薬師寺が建立されていたと伝えられる安国寺があります。東大寺及び太宰府の戒壇院とともに日本三戒壇と称されていたといいます。現在、薬師寺跡には六角堂が建てられておりまして、このエリアのシンボル的な存在となっています。六角堂を囲むように回廊の柱の礎石などの復元作業が進んでいるようで、東山道が通過し古代よりこのエリアの中心つぉなって来た地域性を感じさせました。 新しい市・下野市の印象は、緑に溢れた穏やかな都市近郊エリアという表現がまさにフィットしているように思います。適度に都市化が進み、バランスの良い環境に恵まれているようにも感じます。それらの地域性に豊かな歴史性がうまく溶け込んで、地域の魅力をよりいっそう豊かなものにしているように目に映りました。 |
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