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関東の諸都市・地域を歩く
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#59 立川から武蔵村山へ 〜多摩地域の中核エリアから北へ〜 2009年3月21日、東京都の特別区及び島嶼部以外のエリア-多摩地域あるいは東京都下などと呼ばれます-の中核都市として目覚ましい発展を遂げる立川市の中心駅、JR立川駅に降り立ちました。立川市は夜間人口は約17万人と、相対的には中核都市とみなされるほどではありません。しかしながら、多摩地域のほぼ中央に位置する上、JR中央線から同青梅線、南武線が収束する交通体系の結節点としてアクセシビリテに優れる上、近年では多摩地域を南北に連絡する多摩都市モノレールの重要なターミナルともなっており、鉄道路線網から見た拠点性は立川市街地の拠点性をますます決定的なものにしているように思われます。多くの商業施設が軒を連ね、モノレールが宙空を行き過ぎる現代的な都市空間の中を北へ、立川市のフィールドワークをスタートさせます。
JR立川駅北口は駅前広場一面にペデストリアンデッキが整備され、周辺の諸施設に連絡しています。JR立川駅は都下では最も利用者の多い駅です。この日もたいへん多くの人々が訪れていて、郊外エリアの一大拠点駅としての活気を呈していました。モノレールのレールの下をくぐり、北西方向へペデストリアンデッキを行ける所まで行き、春の花が見ごろを迎えつつある国営昭和記念公園へ向かいます。同公園は西隣の昭島市にまたがり、総面積165.3 ヘクタール。入城しますと目の前に広大な空間が広がって、立川駅前周辺の高層建築物群と好対照をなしています。1983(昭和58)年に開場した同公園は、1977(昭和52)年に全面返還された米軍立川基地の敷地に開園しています。同基地のルーツは1922(大正11)年に開設された旧立川飛行場に遡ります。 公園内はおおむね平坦で、園内は水場や広場、森などのテーマを持ったゾーンに分かれています。四季折々の花々を楽しむことができるほか、サイクリングやバーベキューなども楽しめるようになっています。木々や芝生はまだ芽吹き前の冬の名残を見せていた反面、花壇の花々やハクモクレン、コブシ、ユキヤナギ、サンシュユ、ハナモモなどの花木が一斉にみずみずしい花をつけて、春の到来を存分に知らせてくれていました。広場周辺には目にも鮮やかな菜の花畑が春空に映えて、実に鮮烈に目に映りました。園内のメインルートを西、北へと進み、穏やかな園内の景観を楽しみながら、北側の砂川口から退出しました。
砂川地区は立川市の北部を構成します。同地区は、1963(昭和38)年に立川市に編入されるまでは単独の町(砂川町)でした。主に住宅地となっているこの地域は、宅地の間に畑地や雑木林も点在して、武蔵野の原風景をも感じさせる穏やかさを内包しているように感じられました。地域を東西に貫通する五日市街道(都道7号)は、江戸期に五日市周辺の木材や木炭を輸送するために建設された道路で、江戸(東京)と多摩地域とを結ぶ街道として、今も昔も主要道路として機能しています。街道に面して鎮座する阿豆佐味天神社は、1629(嘉永6)年頃、瑞穂町殿ケ谷にある同神社の総本宮から勧請された砂川地域の鎮守です。本殿は18世紀前半には建てられていたと推定され、立川市内では最古級の木造建築物の一つであると目されているようです(市教委設置の表示板より)。 この地域を象徴するもう1つの事物は、玉川上水です。五日市街道にほぼ沿うように、北側を東西に開削されています。加藤庄右衛門と清衛門の兄弟により建設された玉川上水は、羽村堰から取水し、四谷大木戸までの約47キロメートルを流下し江戸に飲料水を供給しました。1653(承応2)年から翌年にかけてという短期間に、かつ測量器なしに完成された事実が、当時の土木技術の高さを証明しています。上水は後の新田開発期には多くの分水が供用され、農業開発にも多く寄与しています。上水は地域の歴史を今に伝える貴重な資産として、また並木や雑木林の中をたゆたう豊かな景観として、かけがえのない存在となっているようでした。玉川上水は、現在でも一部の上水道の水源となっています。
江戸時代から上水に架けられていたという見影橋を渡り、都道55号を北へ進み武蔵村山市域へ。程なくして左側(西側)に広大な空間が展開してきます。2004年に全面閉鎖された日産村山工場の跡地です。都道沿いには「日産前」のバス停も確認できました。跡地のうち、北側の区画にはイオンや武蔵村山病院などの施設が建設されているものの、南側のほとんどのエリアは茫漠たる草原といった様相を呈しており、大手自動車メーカーの主要工場が立地していたということは窺い知ることはできません。ただ、その圧倒的な広さが逆にそうした工場がかつてあったことを逆に証明させているとも言えるのかもしれません。都道はやがて新青梅街道に接続します。交差点名「三本榎」は、この南にある三本の榎の木(奥住榎;水道局用地内)、加藤榎(都道の東側)、乙幡榎(都道の西側)を総称した呼び名です。奥住榎は大正末期に一度植えかえられていますが、他の二本は樹齢約二百余年と推定されています。古くから往来する人々のランドマークとして親しまれてきた三本榎は、周囲の都市化が進む中にあっても往時の姿を今に伝えるよすがとなっているようでした。 交差点をさらに進み、青梅街道に行き着きます。1603(慶長8)年、江戸城の大改修のために、現在の青梅市成木地区から石灰を運搬する道路として建設されました。その後は五日市街道と同様、東京方面とこの地域を結ぶ大動脈として機能しています。周辺は狭山丘陵が迫る伸びやかな住宅地としての姿がたいへんに印象的でした。その後はバスで多摩都市モノレールの北の終端である上北台駅に至り、この日の活動を終えました。今回は、多摩地域の多くの様相と同じように、住宅都市化の進展と郊外における交通結節点の拠点性向上に伴う商業核の成長が着実に進む地域を歩くこととなりました。しかしながら、それはまたそうした現在的な地域の姿に接しながらも、茫漠とした林野の中に畑地や集落が点在した往時の武蔵野の原風景の末端にもまた触れることができた行程であったようにも感じられました。 |
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