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関東の諸都市・地域を歩く
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#60 西東京市を歩く 〜東伏見から田無へ、青梅街道と石神井川に沿って〜 2009年3月29日、都内でいくつかの桜の名所を訪ねた後、西武新宿線が23区を出て最初に到達する東伏見駅までやってきました。東伏見駅は、もとは上保谷駅という名称でした。西武鉄道が沿線開発の一助に、1929(昭和4)年に京都の伏見稲荷神社を勧請して東伏見稲荷神社を創建した際、駅名が改称されたものであるようです。同鉄道はそのほか早稲田大学の誘致や宅地開発などを行い、同駅の利用者向上を図ったようです。近年の同駅の乗降人員は2万3,000人あまりで、区境を超えて練馬区側からの利用も少なくないようです。 東伏見駅前には中高層の建物はあまり多くなくて、閑静な郊外の住宅地としての佇まいを見せているように感じられます。南口駅前ロータリーに接して、ダイドードリンコアイスアリーナ(東伏見アイスアリーナ)が立地しています。また、西側には東伏見稲荷神社の大鳥居もあり、この駅にかかわる多様な事物がさりげなく散りばめられています。
駅前を南へ、緩やかに下っていきますと、両側は早稲田大学東伏見キャンパスやグランド等の同大学の関連施設群を通過していく形となります。その南側は、石神井川によって画されています。武蔵野台地をゆるやかに刻む石神井川はゆるやかに蛇行しながら、穏やかな流れとなって現在も穏やかに台地を濡らしています。付近には下野谷(したのや)遺跡公園があり、旧石器時代から近代まで人々が暮らした遺跡の一部が公園として整備されていました。古来より人々にとってここが変わらず住みやすい土地であったことを示すものと言えるのかもしれません。 先に、東伏見駅のもともとの名前が上保谷駅であることをお話ししました。保谷はこの周辺のもともとの地名で、ここから北、西武池袋線に保谷駅が存在しています。現在の西東京市は、2001(平成13)年に旧田無市と旧保谷市が合併して誕生しています。旧保谷市の市域が、北から東、南にかけて旧田無市をつつみこむような形状となっており、特に旧保谷市の南部が旧田無市側に向かって細長く西へ伸びる格好となっていたことが、両市合併の素地として存在していたといわれているようです。東伏見周辺はもともとは上保谷村の地域にあたるため、当初は駅もそう名乗っていたというわけです。下野谷遺跡公園を過ぎて石神井川沿いを歩きます。地名の由来となった東伏見稲荷神社も近傍にあります。
細い流れとなっている石神井川は、やがて青梅街道と交差します。青梅街道が江戸城下移築のための石灰を青梅上成木から運搬するために建設されたということは、前項の立川・武蔵村山の稿でもご紹介しました。西東京市を構成するもうひとつの市であった旧田無市の中心市街地は、この青梅街道の宿駅として開かれた田無村柳沢宿を基礎としています。田無村柳沢宿は、青梅街道から所沢道(現在の所沢街道)が分岐する追分であり、人馬継立てを行う交通の要衝として発展しました。街道筋には、その追分(現在の田無町一丁目交差点)に建立されていた庚申塔も付近に残されており往時をしのばせています。追分には田丸屋旅館(現在も田丸屋商店として現存)は田無を象徴する存在であったといいます。 田無町一丁目交差点を左折し青梅街道を進むと、都道12号の東側に田無神社が、その神宮寺であった西光寺を前身とする總持寺が西側にそれぞれ鎮座します。田無神社は鎌倉時代の創建とされ、もとは別の場所にあって尉殿(じょうどの)権現社と呼ばれていました。青梅街道の整備にあたり1670(寛文10)年に現在に遷座しています。本殿及び拝殿は都指定有形文化財で、本殿の建立は1856(安政6)年、拝殿は1875(明治8)年で、いずれも当該時期における高い建築・彫刻技術を物語るものといえます。宿駅時の面影はほとんど見られない現代的な町並みの中心部を歩きながら、田無駅へ。中央線の開通により多摩地域の中核的な機能は同線沿線にシフトしましたが、それでもなお一定の中心性を有し多くの人々が利用するターミナルとしての活気は十分感じられました。 |
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