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関東の諸都市・地域を歩く


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#62 北茨城市概観 〜風光明媚な海岸をめぐる〜

 2009年12月23日、冬晴れの北茨城市を訪れました。茨城県北部を縦貫する常磐自動車道は、久慈川を越えると、太平洋に迫る阿武隈高地南端の多賀山地を穿つトンネルを連続して進むようになります。トンネルを抜けるたびに車窓には紺碧の太平洋が見え、海と山が近い当地の風景を概観することができます。かつては産炭地域として知られており、高度経済成長期終盤頃まで石炭の採掘がおこなわれていました。この炭田を基盤として鉱工業が興隆し、日立製作所などの企業を誕生させたことでも知られています。緩やかな容貌の山地を抜けて到達した北茨城インターチェンジで高速を降り、茨城県沿岸最北の町を進みます。

歴史民俗資料館

歴史民俗資料館(野口雨情記念館)

(北茨城市磯原町磯原、2009.12.23撮影)
野口雨情生家

野口雨情生家
(北茨城市磯原町磯原、2009.12.23撮影)
大津港

大津港の景観
(北茨城市大津町、2009.12.23撮影)
大津港

大津港俯瞰風景
(北茨城市大津町、2009.12.23撮影)

 北茨城市はその名のとおり茨城県の北部に位置しています。1956(昭和31)年に、磯原町、大津町、関南村、関本村、平潟村、南中郷村の6町村が合併し市制施行して誕生しています。市役所のある磯原が中心的な位置づけにあるものの、漁港を軸に成長した大津ををはじめ個性にあふれた地域の集合体といった印象で、先述の工業化による影響や海と山が織り成す自然景観もあいまって、魅力的な風貌を形成しています。

 海沿いのわずかな平地を南北に連絡する国道6号を進みますと、右手には雄大な太平洋の大海原と、多様な形状を見せる岩礁がが美しい磯浜が続いていきます。山が迫る狭い平地を、常磐線の鉄路も並走していきます。途上には磯原生まれの詩人・野口雨情の生家があります。野口家はもと水戸藩の郷士であり、その生家は水戸光圀により観海亭と名付けられたとする説明が掲げられていました。現在の建物は明治時代に建てられたもので、木造瓦葺の建物には二階部分に回廊風の手すりが付けられていて、質実な概観ながら随所に名家としてのこだわりを感じさせます。近傍には市歴史民俗資料館(野口雨情記念館)もあって、雨情の著作などのほか、地域の歴史文化についても理解を深めることができます。



五浦海岸の景観
(北茨城市大津町、2009.12.23撮影)
五浦海岸

五浦海岸の景観
(北茨城市大津町、2009.12.23撮影)


六角堂(観瀾亭)
(北茨城市大津町、2009.12.23撮影)
五浦海岸

五浦海岸から小名浜方面を眺望する
(北茨城市大津町、2009.12.23撮影)

 国道6号から大津港へと向かう県道154号を進み、県内でも有数の漁獲量を誇る大津港ののびやかな港湾景観が目に入ります。大津港は太平洋に突き出した大津岬の高まりがつくる小さな湾に発達しています。茨城県の太平洋岸北部においては規模の大きい湾入部であることから、自然と船が集まる場所となっていたのでしょう。地形図などを見ますと、大津岬の高台は阿武隈高地の断片で、河川の浸食によってこうした地形となったようにも見て取れます。大津港を過ぎますとその岬を登るように道は進み、岡倉天心が愛した風光の地、五浦(いつうら)海岸へと導かれます。断崖絶壁と松林と太平洋とがつくる風景は本当に美しいの一言で、海岸に臨む六角堂(天心は「観瀾亭」かんらんていと呼んでいた)では、その佳景に囲まれながら潮騒に心を洗われるような感覚になります。

 今回の文章は2009年訪問時を基礎に書き進めていますが、その後大津港や五浦海岸は東日本大震災の被害を受け、前出の六角堂は津波により流出する影響を受けています。六角堂は近年再建され、港湾施設の復興も徐々に進んでいるようです。北茨城市は茨城県、ひいては関東地方の北の端であり、その先は陸奥の広大な大地へと続いていきます。五浦海岸の美しさや阿武隈高地へと連なる山々の豊かな自然を思う時、東北地方ともつながるやさしさに満ちた北茨城の地域の一つひとつが、かけがえのない所産であるようにも思えました。

※掲載写真は注記のとおり東日本大震災前の様子を撮影したものです。地域の美しさを記録し、伝えるという観点から、掲載をしているものです。

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