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関東の諸都市・地域を歩く
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#63 松戸市街地散歩 〜江戸川に臨む宿場から住宅都市へ〜 2009年12月26日、さいたま市でのイベント参加前に、千葉県松戸の市街地を歩きました。千葉県の西端に位置し、都心へのベッドタウンとして成長著しい松戸市は、基幹となるJR常磐線をはじめ、武蔵野線、新京成線、流鉄流山線、北総線といった多くの鉄道が市域を縦貫しています。日暮里で東北線と別れ、隅田川、荒川、中川、江戸川と川を越えてきた常磐線は、江戸川左岸に発達した松戸の市街地へと到達します。松戸は旧水戸街道の宿場町でしたが、それ以上に銚子から利根川を上ってきた物資がいったん陸送され、江戸川を介して再び江戸へ輸送される、物流上の一大拠点として栄えた歴史を持ちます。
松戸の中心市街地は江戸川に面し、東側の一段高い台地との間の比較的狭い空間に帯状に展開しています。多くの中高層ビル群に囲まれた駅を東口から出ますと、目の前のイトーヨーカドーやプラーレ松戸のすぐ東は台地の端の崖になっていて、いっそう市街地の密集度が高いものに感じられます。その大型店舗に突き当たってから南に15分ほど歩きますと、戸定が丘(とじょうがおか)に至ります。ここには、水戸藩最後の藩主徳川昭武が1884(明治17)年に邸宅(戸定邸)を建てて移住した場所です。戸定邸は明治期の上流家庭の住宅の姿を伝える貴重な資産として重要文化財に指定されています。洋風の意匠を加えた庭園も県指定名勝であるそうで、この戸定邸を中心として歴史公園が整えられ、高台からの俯瞰風景など、松戸の豊かな景観に触れることができます。なお、戸定とは周辺の小字地名であるそうです。松戸駅周辺はこれだけの都市集積がありながらも住居表示が行われず、駅周辺が「松戸」で1000番台の地番が見えるなど、旧来からの町場としての土地柄が垣間見えるのも特徴です。 松戸はまた、軍事的な視点からも歴史に名を記している場所でもあります。先にお話しした駅東側の高台は「相模台」と呼ばれます。戦国期には幾多の合戦の場ともなったこの場所に、1919(大正8)年、陸軍工兵学校が設立されます。以後、1945(昭和20)年の終戦まで工兵の軍靴の音が絶えない町場でもありました。松戸中央公園入口の門柱と門衛は、そうした当時の遺構であるといいます。
再び駅に戻り、多くの人々が行きかう西口の中心市街地方面へと進みました。駅周辺は西口も含めペデストリアンデッキがつくられており、駅からは段差なく各商業施設へアクセスすることができるようになっています。さらに中高層のビルやマンションなどが林立する市街地を西へ歩き、かつての水戸街道筋にあたる県道5号(流山街道)に行き着きます。旧街道筋は中低層の業務系ビルやマンションが立ち並ぶ現代的な空間となっていまして、かつての宿駅のようすを垣間見ることはほぼできませんでした。市街地を南北に流れる坂川を越えますと、町並みはやや落ち着くものの依然としてマンションが多く建てられており、都心に至近な土地柄から急速に住宅都市化した経緯が視覚的にも実感されます。そして、開放的な江戸川河川敷へと到達しました。 雲ひとつない晴天の夕刻、そこには関東平野の只中を存分に流れ下っていたであろう往時そのままの、幅広い河道を持つ大いなる江戸川の流れがありました。巨大都市の利水や物流の強化などのため幾多の人為的改変を経たこの川は、かつて江戸湾に注いでいた渡良瀬川(近世までは太日川などと呼ばれていました)の下流部分を承継しているものです。旧水戸街道はこの松戸でこの太日川(後の江戸川)に突き当たり、渡船により対岸の金町と連絡していました。最初に概観しましたとおり物資の集散地としても重要な位置にあった松戸は、交通の結節点として、この地域ではいち早くまとまった町場を形成してきました。堤防にモニュメント的に再現されている常夜燈や、江戸に向けての出発点であった納屋川岸周辺の古い建物などに、そうした舟運で生きた地域のよすがを感じました。 広い空の下、おおらかに流れる江戸川を挟んで展開する現代の松戸の街並みに触れ、この地域が駆け抜けた時間の縮図を見ているような気持ちになりました。 |
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