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関東の諸都市・地域を歩く
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#67 木更津市街地周遊 〜港町から地域の中心都市へ昇華したまち〜 いわゆる「太平洋ベルト」と呼ばれる工業地帯は、我が国の高度経済成長を牽引する象徴の一つでありました。私が小中学校で日本の地理を学習した際には、四大工業地帯という言葉と並列的にこの用語が紹介され、三大都市圏近傍の海岸地帯の多くが石油化学コンビナートや製鉄所などとして重厚長大型の工業地域へと変貌し、経済発展に寄与したとする文脈が強調されていたように思います。今日ではこうした基礎的な工業地域の重要性は不変ながらも、より多様な産業構造への転換やグローバル化に伴う影響などへと関心が移って久しいようにも感じます。今回ご紹介する木更津を含む千葉県の東京湾岸のエリアも、上記の工業化によって最も劇的な変容を遂げた場所の一つです。生まれ育った海岸が大きく変化し、その変わりゆく姿をつぶさに見つめた世代にとってはかつての遠浅の浜辺が懐かしい風景であるとともに、近代的な工業地帯として整えられた現代の光景を日常と感じる世代もかなりの比率を占めるようになっています。そうした時代の変遷を感じながら、千葉県上総地方の中心都市としての顔も持つこの町を歩きました。
2010年2月20日、臨海部の埋め立て地に立地する市役所から散策をスタートさせます。地図を見ますと、埋め立てにより造成された場所が直線的な街路で構成されているのに対し、既存の陸地に相当する部分では旧来の集落内の道路を反映して湾曲した道路も認められるなどの対象が見て取れます。そうした従来からの住宅地域を抜けて、バス通りになっている市道を北へ中心市街地を目指します。この道路は古くからの街道筋のようで、土蔵造りの古い建物も散見されました。矢那川に架かる橋の名前は「證誠寺橋」。童謡「証城寺の狸囃子」で知られる證誠寺からの命名で、寺も至近にあります。弁財天厳島神社の小さな祠の前で街道筋は東へ折れ、さらに八剱八幡神社の前で北に折れて、クランク状に進んできます。周辺は昔ながらの歓楽街のようで、港町として古くから町場を形成してきた町の伝統を感じさせます。かつてそごうが入っていたビルは商業施設「アクア木更津」となっています。地域を語るサイトの多くは、東京湾アクアライン完成後急速に進むストロー効果による中心市街地の衰退傾向を指摘しているようで、そごうが撤退した後の同施設の経営動向について視線を向けているようです。駅前は「証城寺の狸囃子」をイメージした狸のモニュメントで溢れていました。 木更津駅の東口へ出て、区画整理より整えられたと思しき新興市街地を進みます。そごうの閉店と時期を同じくして撤退したダイエーの店舗はその後別のショッピングモールに改装したもののその後閉店、訪問時は既にバリケードで覆われた状態となっていました(現在は解体が終了し駐車場になっているようです)。東口には西友系の商業施設もあったようですがこれも閉店し現存していません。バブル経済崩壊後から、巨大ショッピングモールに代表される急速な郊外化が進んで、さらに交通網の発展による大都市への買物客の遷移がここ2,30年の間に一地方都市の駅前の商業環境を大きく変えた典型として知られる木更津の今がそこにありました。市街地を見下ろす太田山公園までの低地は旧来は水田や畑として利用されていました。今日では多くが市街地へと変貌し、ロードサイド型の店舗も多く立地しています。市民の憩いの場となっている太田山公園にはシンボルタワーである「きみさらずタワー」があり、木更津市街地をはじめ、君津の製鉄所や東京湾アクアラインなどを遠望することができました。
木更津はさまざまな伝承に彩られたまちです。地名の由来となった「きみさらず伝説」は、日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の悲恋の伝説で、日本武尊が現在の東京湾を房総方面へ渡ろうとするも海が荒れてかなわなかったところ、妻の弟橘媛が海に身を投げたところ嵐が治まったとするものです。日本武尊が妻を惜しんで詠んだ歌「君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」の「君さらず」が、一説には木更津の地名のもととなっていると言われているのだそうです。この他、内房一帯の「君津」や「袖ヶ浦」、「富津」などはこの伝承に基づく地名であると言われています。金鈴が発掘されたことで知られる金鈴塚古墳を一瞥しながら、郊外の畑地と住宅地が交錯するエリアを進み、JR線を跨いで、そうした風雅を感じさせる港町を基礎とした木更津の市街地へと再び入りました。 明治期の地形図を見ますと、木更津がまさに海に相対した港町であったことが分かります。遠浅の海岸に接して展開する町場は県庁所在都市・千葉よりもとして大きい印象です。江戸との物流の拠点として成長した町は千葉県中部、上総地方の中心都市として今日までの地盤を確立しました。県道90号から途中狭い路地を南へ入り市街地を歩いていますと、土蔵造りの町屋や近代的なモダンを感じさせるコンクリートの店舗などもあって、そうした町の歴史を感じさせました。臨海部は製造業や流通関連の事業所が立地する現代の産業地帯となります。その中でも市街地に近接する港の部分は観光・レジャー的な景観も整えられていまして、港内の中の島へは日本一高い歩道橋が連絡しており、ランドマーク的な存在となっています。
港の周辺を散策した後、冒頭にお話しした證誠寺に立ち寄りながら木更津市街地の訪問を一通り終えました。古来から現代に至るまで数々の伝承に彩られながら輝く町並みは、商業環境の激変にさらされながらも、地域を代表する都市としての確かな営みを感じさせるものであったと思います。 |
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