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関東の諸都市・地域を歩く


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#66 町田・相模大野概観 〜多摩丘陵から平野へ遷移した町場〜

 今日の町田は、多摩地域南部の一大商業中心として成長し、多くの商業施設や飲食店が集積する活気のある町並みを形成していることは既にご紹介しています(東京優景内、原町田を行く 〜急速に膨張した交通の要衝〜)。2010年1月23日、高尾山周遊を終えた私は八王子駅から横浜線で町田駅へ移動し、その後町田市域を少しだけですが歩くことができました。町田市北部、いわゆる多摩丘陵と呼ばれる地域は大規模な宅地化が進行しながらも現在でも山間地の緑や農地が多く残るエリアであり、中世鎌倉に幕府があった頃、関東各地から鎌倉に続いていたという「鎌倉街道(当時はこのような呼び名はなく、呼称は近世以降に定着したもののようです。そうした経緯から近世以降現代における鎌倉街道と区別するために、中世におけるそれを「鎌倉古道」の名でも呼ぶようです)」も残るというエリアに興味があり、ぜひ歩いてみたいということからの行動でした。

 午後2時前、相変わらず多くのビル群が立ち並び活気の絶えない町田駅前に降り立ち、散策をスタートさせました。八王子と鎌倉を結ぶ「絹の道」と呼ばれた旧町田街道沿い、とりわけ町田商工会議所会館前付近からぽっぽ町田前付近までは原町田が町場として成長する原点となった二・六の市が立った場所です(現在ぽっぽ町田のある場所は検証が十分ではないのですが、かつては町田市役所の立地していた場所であるようです。その後庁舎は中町一丁目に移転し、現在は森野二丁目に再移転しているようですね)。これだけの繁華街が成立しても、住居表示は「原町田」で、ここがもともとの町田の起源である本町田地区から派生した新興商業地であることを地名に残していることは、地域の変遷を新地名に埋没させることが多い昨今にあって珍しいことであるように感じます。

町田駅前

JR町田駅前の景観
(町田市原町田四丁目、2010.1.23撮影)
今井谷戸交差点

今井谷戸交差点周辺の景観
(町田市本町田、2010.1.23撮影)
薬師池公園

薬師池公園
(町田市野津田町、2014.9.15撮影)
旧永井家住宅

旧永井家住宅
(町田市野津田町、2014.9.15撮影)
旧鎌倉街道

七国山・旧鎌倉街道と鎌倉井戸
(町田市山崎町、2014.9.15撮影)
旧鎌倉街道

七国山・旧鎌倉街道
(町田市山崎町、2014.9.15撮影)

 町田駅周辺の市街地を一瞥した後、小田急線の踏切を越えた先にある町田駅前バス停から野津田車庫方面行きのバスに乗車し、町田市北部を目指しました。商業的な土地利用が卓越した地域は次第に住宅の多いエリアへと移り変わり、菅原神社交差点から今井谷戸交差点あたりまで来ますと、丘陵性の起伏のある土地に、切り開かれた住宅地や旧来からの住宅、家庭菜園的な畑地が交錯する風景と変わっていきます。このあたりが先述した本町田で、原町田が市街地として勃興する前はこの一帯の中心的な地位を占めていたようです。現在は丘陵地とそこに切れ込む谷筋(「谷戸」と呼ばれる地形)とが豊かな森林をはぐくんできた地域において一部で新興住宅地域が開発されながらも、田園的な景観もまた随所に認められる地域といった印象です。

 なだらかな丘陵に刻まれた谷に形成された、うるおいに満ちた谷地に、薬師池公園があります。傍らには多摩ニュータウンから町田市中心部(原町田エリア)へと続く現代の“鎌倉街道”を多くの車両が通過する中、近世に建てられ高度経済成長期まで現存してきた古民家が移設されるなど、園内の造形はこの地域ののびやかな田園風景を想起させます。大都市圏域ではこうした民家の移設保存がしばしば見られることは、またそうした建築のあった地域が宅地開発等により急速に都市化し、大きく変貌してきたことの証左であるともいえます。現代的な住宅地として開発された街区が里山の緑に囲まれた環境は、自然との共生できるかけがえのない財産ともなっているともまたいえるでしょうか。高尾山散策から続くこの日の活動は公園を訪れた時点で夕刻となり終了となったため、2014年9月15日に再び町田駅から薬師池公園に向かい、この日のフィールドワークを捕捉する踏破を行いました。薬師池公園から七国山の豊かな田園地域と住宅の混在する風景を確認しながら、武蔵野の雑木林の樹層を今に残す里山に分け入り、かつての鎌倉街道をたどる山道を清々しい気持ちで歩くことができました。

七国山田園風景

七国山周辺の田園風景
(町田市野津田町、2014.9.15撮影)
境橋

境川(境橋より西方向を望む)
(都県境上、2014.9.15撮影)
県道沿いの景観

県道51号沿い、町田方向を望む
(相模原市南区上鶴間本町五丁目、2014.9.15撮影)
相模大野駅前

小田急相模大野駅前の街並み
(相模原市南区相模大野三丁目、2014.9.15撮影)
相模大野駅前

小田急相模大野駅前の商店街の街並み
(相模原市南区相模大野三丁目、2014.9.15撮影)
相模大野駅

小田急相模大野駅・駅ビル
(相模原市南区相模大野三丁目、2014.9.15撮影)

 そして、丘陵エリアと都市景観とが豊かな共存を見せることに加えた町田周辺におけるもうひとつの特性を確かめるべく、バスで町田駅へ戻り、JRの駅を南へ歩いてみることにしました。抜けた先には都県境の基本となっている境川が目の前を流れています。駅の南側は都県境が川の北側に張り出している部分で、町田駅をすぐ出た場所にも関わらず住所上は相模原市です。これは蛇行していた境川の流路自体は直線化されても、もともとの河に沿って設定されていた都県境までは変更できずに残されたためのもので、町田駅付近以外でも流域の南北にそれぞれの都県域に張り出した領域が存在しているようです。境川の名はここがかつての相模国と武蔵国の境界であったことに因みます。川沿いに東南に進み、町田駅前から続くケヤキ並木が到達するその名も境橋まで川の両側に迫るマンション群の見える歩道を一瞥しました。河の中には大きく成長した桑の木があるのが目にとまりました。かつて絹織物産業が盛んで「桑都(そうと)」の異名もある八王子から横浜へ向かう“絹の道”が通過し、養蚕産業ともかかわりのあったこの土地の歴史が都市化された中に残されているような気がして印象に残りました。境橋から県道を1キロメートルほど西へ、境川のつくる段丘をのぼりつめた場所に、相模原市南部における拠点エリアである相模大野があります。そう、その特性とは、町田と相模原という首都圏郊外エリアにおける拠点性のある業務核都市が間近に立地しているという「副核都市」としての顔です。

 都県境を挟んで連接する町田・相模原両市にあって、町田駅と相模大野駅はともに拠点性のある市街地が至近に接する、2つの市の地理的特性を象徴するような場所であるようにも感じます。とはいえ、歩いてみた感想では両駅の市街地は連担しているという雰囲気は感じず、むしろそれぞれに固有の駅勢圏をもって地域の日常生活圏の中心に位置しているといった評価が妥当なのではないかとも感じました。町田駅周辺は百貨店が多く集積するなど商業機能の面では相模大野よりやや突出した存在であると評されることが多い一方、相模大野駅は小田急線の分岐駅として都心方面への速達列車のほとんどが停車するという地の利を生かしたベッドタウンとしての快適性が前面に開発されているという印象で、文教施設や文化ホール、緑地スペース、そして一定規模の商業施設も擁する駅前の土地利用はそうした方向性を強く感じさせるものでした。相模原駅周辺、橋本駅周辺という市内の他の都市核をつなぐ国道16号も間近を通っていて、公共交通と自家用車による移動とが共存する郊外地域の様相も感じ取ることができます。商店街には北里大学の最寄駅として同研究所創立100周年を記念するフラグが見られたのも印象的でした。

 駅ビルとホテルの巨大なビルが都市郊外における一大拠点地域のランドマークとしての威容を見せる相模大野駅において、2日目のフィールドワークを終えました。相模大野周辺をフロントとして、中央林間や海老名、厚木方面の神奈川県中央部における郊外都市が連なっていきます。そういた伸びやかな郊外エリアを束ねる大きな要衝として、その地力を示す駅前の躍動感を存分に感じることができました。

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