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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#8 原町田を行く 〜急速に膨張した交通の要衝〜(町田市) 2008年2月2日、八王子フィールドワークを終えて相模原フィールドワークを実施すべく国道16号を南へ移動しました。相模原では市役所で自家用車を降り、JR横浜線を利用して相模原、橋本と地域を歩いた後、相模原市と接し日常的・経済的な結びつきの強い町田の市街地を軽く歩く機会をつくりました。相模原南東部の相模大野を見据える位置にあり、この地域の現況を確認しておきたいとの意図からでした。JR町田駅南口、都県境のベースラインとなっている境川を越え相模大野方面へと連なる市街地を一瞥し、北口方面と向かいます。 JR町田駅は小田急線の町田駅と近接し、両駅の間を埋め尽くすかのように多くの商業ビルが立ち並んで、この地域における一大商業中心としてあまりある中心性を保持しています。丸井やルミネ、109、西友、小田急百貨店等の大型店舗が林立し、それらを取り巻くように設置されたペデストリアンデッキには、多くの人々が闊歩し、町に活気を与えています。両線の交差するあたりには規模の大きいバスターミナル(町田バスセンター)があり、多くの路線バスや高速バスなどがひしめく姿は、バス交通においてもここが一大結節点となっていることを十分に示していました。
町田駅の周辺の地名は「原町田」です。北のほうに目を転じますと、「本町田」という地名も存在します。この地名から類推されるように、原町田は元来は本町田とともにひとつの村(町田村)を形成しており、後に原町田として分離したもの(原町田に対し、旧来の町田村の中心集落は「本町田」と呼ばれた)であるようです。1587(天正15)年には、これまで本町田で開かれていた市が分かれ、「二の市(2のつく日に開催される定期市、以下、○の市の○に数字が入る言葉は同様の意味))」が原町田、「七の市」が本町田で開かれるようになり、やがて交通の要衝の位置を占めていた原町田の市は発展し、文政・天保年間(1818〜1843)までには開催日が増えて「二・六の市」となって、炭・薪・蚕糸・畑作物のほか、衣料や農具など多くの物産を取り扱い、町場としての礎を築きました。近代に入ると八王子方面から生糸を運搬する「絹の道」(現在の町田街道)が急成長し、横浜線や小田急線が開通、拠点性をさらに蓄えた原町田は、高度経済成長期後は首都圏の拡大を受けて飛躍的に高密度化し、現在に至っています。 小田急線の駅側でペデストリアンデッキを降り、市街地を散策します。都県境のベースとなる境川に向かって緩やかな傾斜となっています。原町田の市街地を歩いていますと、街路が格子状に整えられていることに気がつきます。この構造は、インターネット上で参照することのできた1961(昭和36)年の地図でも基本は出来上がっていたようです。その一方で、そうした規則的な街路網を縦断して市役所東を抜け、原町田中央通り交差点に達する鶴川街道もまた特徴的です。同交差点を通過する町田街道(旧道)とともに、古くから存在してきたルートのようで、歴史をさかのぼりますと、上州方面から鎌倉とを結んだ中世の道路体系である鎌倉道との接点も見えてきそうで、原町田中央交差点は交通の要衝として存立してきた原町田のまちとしての原点といえるのかもしれません。実際、この交差点の先の旧町田街道沿いが、かつて二・六の市が開かれていたエリアに当たるのだそうです。
旧町田街道を過ぎ、現在の「町田ターミナルプラザ」が立地する一帯は、1980(昭和55)年3月末までは原町田駅と呼ばれていた旧町田駅のあった場所でした。再開発に伴い駅舎が現在の位置に移転し、町田市の玄関口という意味を込め、「町田駅」に名称変更をしました(その後、1976年4月に小田急線の駅も新原町田駅から町田駅に名前を変える)。ターミナルプラザ前の交差点上のデッキには、「シティゲート」と呼ばれるモニュメントが立ちます。 商圏人口200万人とも呼ばれる町田市が、周辺の自治体との合併により市となったのは、1958(昭和33)年のことで、主要都市としては意外にも歴史的には浅い部類に入ります。さらに意外なことに、市制施行時の人口は6万人余りであったといいます。それが約20年後の1970(昭和45)年には20万人を超え、1980年には約30万人となり、現在の約42万人という規模へとまさに急成長しました。原町田駅がまだ小田急の駅と離れた位置にあったころの写真をウェブ上で検索し確認する限りにおいては、多摩丘陵に囲まれた町場は、急激な変化を見せながらも、「原町田」という田園地帯におけるのびやかなローカル中心という印象そのままの雰囲気を色濃く残していたように思います。市街地が連続する相模原市とともに副核の業務都市として位置づけられるようになるまでに成長した今日の町田は、市場の立つ原町田として出発した歴史と拠点性とを生かしながら、さらなる飛躍を見せていくこととなるのでしょうか。 |
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