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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#9 東京リレーウォーク(1) 〜日本橋から銀座へ〜 (中央区)

 2008年3月15日朝、春の陽気うららかな東京駅八重洲口を出発し、東京特別区内のフィールドワークを開始しました。八重洲口周辺は多くの企業の本店・支店が立地するオフィス街として、高層建築物群の立ち並ぶ景観が連続します。また、八重洲口は中長距離の高速バスが多く発着するターミナルともなっており、昼夜問わず多くのバス利用者が集まる場所としても印象深いですね。近年は東京駅周辺再開発(東京ステーションルネッサンス)の一環としてグラントウキョウサウスタワー(42階建て)・ノースタワー(43階建て)の二棟の超高層ビルが出現し、新たなランドマークとなっています。今後は間にある鉄道会館ビルが解体され、2013年春頃までには、両高層ビルをつなぐペデストリアンデッキ「グランルーフ」として生まれ変わる予定であるようです。

 北の方向に日本橋三井タワーを望む外堀通りを渡り、八重洲通りを東へ、中央通り方面へと進みます。振り返りますと、鉄道会館ビルの建物が八重洲通り両側を埋めるビル群の向こうに、衝立のように屹立し、長く八重洲口を象徴してきた景観が確認されます。今回のフィールドワークは、東京の町を縦横に歩いて、地域の姿を確認しようという試みの第一歩として始めたものでした。東京の中心の一つである東京駅を起点とし、一日かけて地域を歩き、終着地点となった駅から次のフィールドワークを始めて、リレー方式に東京を歩き回ろう、という企画です。題して、「東京リレーウォーク」。何年かかるかわかりませんが、数珠つなぎに東京をめぐり、「地域」の視点から東京を跡付けてきたいと考えています。

東京駅八重洲口

東京駅八重洲口・グラントウキョウサウスタワー(左端)
(中央区八重洲一丁目、2008.3.15撮影)
八重洲口

東京駅八重洲口・グラントウキョウノースタワー
(中央区八重洲一丁目、2008.3.15撮影)
外堀通り

八重洲口・外堀通り
(中央区八重洲一丁目、2008.3.15撮影)
日本橋

日本橋・高島屋前(奥はクレド日本橋)
(中央区日本橋三丁目、2008.3.15撮影)

 程なくして到達する中央通りを左へ曲がりますと、日本橋のエリアへと入っていきます。今日でも多くの企業の本支店が集積する日本橋は、副都心が成長し、各地で再開発が実施されて多様化が進む東京にあっても、やはり押しも押されもせぬ経済の中枢であるのでしょうか。中央通り沿いには高層のビル群が連続し、伝統的な巨大ビジネス街としての風格が伝わってくるようです。日本橋高島屋の洋風のファサードも、東京をリードしてきた日本橋の歴史性を象徴してるように感じられます。COREDO日本橋(旧東急百貨店跡地)の超高層ビルを一瞥しながら、日本橋へと進んでいきます。

 日本橋は、江戸幕府が開かれた1603(慶長8)年に初めて架橋されて以来、東海道をはじめとした五街道の起点として、またその後における東京市道路元標や日本国道路元標の設置など、東京あるいは日本の道路交通上の中心として、象徴的な位置を占め続けてきました。また、流通上重要な水路であった日本橋川との接点でもあり、藩政期には高札場が置かれていたほか、北詰の東側一帯には、魚河岸があったことでも知られていました(関東大震災後に魚河岸は築地に移り、今日の東京都中央卸売市場に発展)。現在の日本橋は、1911(明治44)年に、石造二連アーチの道路橋として完成したものです。ルネサンス式の落ち着いた風合いの石橋は、震災と戦災を乗り越えて成長を続けてきた東京の歴史そのものであるといってもよいのかもしれません。江戸時代に物流を支えた日本橋川は今日、首都高速道路の道路敷へと姿を変えながら、首都の人と物の流れの中核を担い続けています。

日本橋

日本橋
(中央区日本橋一丁目、2008.3.15撮影)
日本橋

日本橋・装飾柱の獅子像
(中央区日本橋室町一丁目付近、2008.3.15撮影)
日本橋

日本橋より中央通り、南方向を望む
(中央区日本橋室町一丁目付近、2008.3.15撮影)
京橋

京橋の親柱前より銀座入口を望む
(中央区京橋三丁目付近、2008.3.15撮影)

 中央通りを再び南へ戻り、八重洲通を横断しますと、京橋地域へと入っていきます。中央通りは日本橋から連続していることからも分かるとおり、かつての東海道のルートにあたります。江戸開府当時は、このあたりは本郷台地から南へ、江戸城(現在の皇居)から東を見て、かつて存在した日比谷入江と呼ばれた入り江を挟んで南へ半島状に突き出た「江戸前島」と呼ばれる地形が形成されていました。東海道筋はその江戸前島の尾根筋を通過しているとされているのだそうです。京橋の地名は、日本橋を出発して最初に通過する橋の名前に由来します。京橋は1875(明治8)年に石造りのアーチ橋として架橋されて以降、1905(明治38)年、1922(大正11)年に掛け替えを行いながら、この地域を象徴するモダンな建造物として、日本橋と並ぶ佇まいを見せていました。1959(昭和34)年に京橋川が埋め立てられるとその役割を終え、現在はその川の跡地に建設された東京高速道路KK線の下に二基の親柱が残されるのみとなっています。

 東京高速道路をくぐりますと、中央通りは銀座の町の只中へといざなわれます。オフィス街が中心であった日本橋・京橋エリアから、繁華街である銀座へと至りますと、道行く人々の数がさらに増えていくのが実感としてわかります。春の日差しがさんさんと降り注ぐ青空の下、銀座はとびきりの輝きを見せていました。そして、正午。中央通りをひっきりなしに通過していた車の流れがぴたりと止まり、歩道を歩いていた人々が中央通りにさっそうと繰り出し始めました。この開放的な雰囲気、近代都市としての洗練された町並みこそ、ここが繁華街の最高峰としての銀座のステータスそのものなのでしょうか。中央通りのまさに真ん中に躍り出て、銀座の町歩きを進めていきます。

東京リレーウォーク(2)」へ続きます。

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