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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#10 東京リレーウォーク(2) 〜銀座の街並みを歩く〜 (中央区) 東京駅八重洲口をスタートし、中央通りを日本橋へ、そのまま中央通りを南へ戻って進んだ行程は、京橋を過ぎて、土曜日の昼下がり、春の穏やかな陽光に包まれていよいよ華やぐ銀座へとさしかかりました。歩行者天国となった中央通りからは車の通りがあっという間になくなって、銀座の町歩きを楽しむ多くの人々が車道に繰り出しています。パラソル付きのテーブルもここかしこに持ち出されて、都心の粋な公園の一角のようにも感じられます。近代化以降、モダンな街、大人の街として多くの人々の羨望の的となり、繁華街の頂点に君臨する銀座の町は、今も昔も変わらぬ喧騒の中にあるようでした。 銀座二丁目に、「銀座発祥の地 銀座役所趾」と刻まれた石碑が小ぢんまりと建てられています。中央区のホームページの記載を引用しながら、銀座の略史を示すと次のようになります。 全国いたる所に「○○銀座」と呼ばれるところがあります。盛り場の代名詞ともなっている「銀座」。そもそも、その名の起こりは江戸時代にさかのぼります。 「銀座」は江戸時代金貨(小判)を扱う金座に対し、銀および銀貨の鋳造・取締りを司った幕府の機関で、慶長6年(1601年)に伏見に創設されました。同11年には駿河にも設けられ、同13年伏見銀座は京都に、同17年駿河銀座は江戸(現在の銀座2丁目。当時は新両替町)に移されました。これが銀座の地名の起こりです。 のちに銀座は蛎殻町へ移り、明治2年(1869年)、金座とともに廃止になりましたが、銀座の名は町名として残しました。 伝統的な流通・経済の中心である日本橋と、日本最初の鉄道が開業した新橋駅との間に位置する銀座は、明治期以降煉瓦街としての整備がすすめられ、日本有数の繁華街として成長していきました。そんな銀座のルーツは、銀や貨幣の鋳造等を司った幕府の機関の所在地であったということで、銀座発祥の地の碑はその史実を記念して建てられているというわけです。そして、現在の碁盤目状の街路構造も、後に追加された道路もあるものの、基本的に江戸時代に割り出された町の形がそのまま残っているのだそうです(歩道のある道が江戸期からの道路、歩道のないものがその後に設置された道路と区別されるのだとか)。常に東京の文化の最先端を走ってきた銀座でも、地域の歴史の積み重ねの上に存立してきていることがわかります。そんなもののひとつである、かつての東海道をそのまま踏襲している中央通りを南へ、さらに歩を進めていきます。
洗練された大人の町の銀座を象徴するものの一つに、「銀座の柳」があるのだそうです。もともと銀座周辺の土地が日比谷の入り江の東側に発達した砂州「江戸前島」であったことは前項でお話しししました。銀座が近代的な繁華街として整備される中で街路樹も植栽されました。柳は、そうした低湿地を起源とする銀座の土地にもっともマッチした街路樹として選ばれ、程なくして銀座の情緒を演出するシンボルとして柳並木は定着していったのだそうです。柳は震災や戦争による被災、道路拡幅などの都市開発によってその多くが失われました。銀座発祥の地の碑にほど近い、銀座柳通り(地下鉄有楽町線のルートと重なる通り)は、そんな数少ない「銀座の柳」が見られる場所です。ビルが立ち並ぶ現代的な空間で、しなやかに枝を春風に揺らす柳の木々もまた、古き良き銀座を今に伝えているのかもしれません。 銀座四丁目交差点の三愛ドリームセンターや和光本館の時計台といった銀座を代表するランドマークを一瞥しながら、たくさんの人々が闊歩する中央通りを進んでいきます。街を歩いていて、銀座は現代的な都市空間の只中にありながらも、空がたいへんに美しく映える場所だとふと感じました。この日は雲ひとつない青空で、春風も穏やかな最高の陽気で、ビルの間から覗く青空が町並みの中にダイレクトに収まっている、言い換えますと空そのものが都市景観のある意味での「借景」として機能しているような、そんなすがすがしさを感じました。銀座には通称「銀座ルール」と呼ばれる統一した都市計画上の制限がかかっており、建物の高さや容積率が一定の基準以下となるよう調整が図られていることを後に知りました。歩道にある木々やプランターや花壇の花々も鮮やかに整えられていまして、改めて銀座における「清涼感」の意味を実感した次第です。
そして、気づかされることは、有名海外ブランドのショップの林立ぶりですね。有楽町駅周辺の再開発とも関連して、この現象を大人の町、高級志向の町としての銀座の大衆化としてとらえる向きも少なくないようです。私自身、銀座をはじめとした東京の地域文化の動向については全く見識を持ち合わせていないですし、ファッション関連の知識に疎く、現状がどのようにとらえられるかは正直のところ分かりません。しかしながら、銀座が有数のデパート集積地であり、多くの文化施設や高級料理店等が集まる銀座は、ハイセンスな文化の香り漂う街として、押しも押されもせぬ場所であることには違いはないでしょう。表面的にはカジュアルな流れを受け入れつつも、真の姿もまた巧みに輝かせる銀座の懐の深さとでも理解されうるのでしょうか。土曜日の午後、銀座には各地からの観光客の集団とおぼしき一団もたくさん見受けられました。 春のうららかな日和の中で楽しんだ銀座の町歩きも、銀座八丁目へと至り、東京高速道路のたもとに至りました。高速道路に沿って東へ少し進みますと、「芝口御門跡」という史跡がありました。説明表示によりますと、高速道路の道路敷はかつて汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には新橋が架けられていたとのこと。その北詰に1710(宝永7)年に城門が建設されて、芝口御門と呼ばれていたのだそうです。希少な存在となっている柳並木が見られるこの通りの名前が「銀座御門通り」で、建築後わずか15年で焼失してしまい再建を見なかった門の存在が通りの名前に息づいている形となっているようでした。昭和通りを歩道橋で越え、汐留の再開発エリアを右手に見ながら浜離宮恩賜庭園へと足を運びます。 「東京リレーウォーク(3)」へ続きます。 |
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