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関東の諸都市・地域を歩く
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#73 野火止用水をたどる 〜武蔵野の雑木林のある風景を行く〜 前編 2010年11月27日、初冬の晴天のこの日、埼玉県新座市のJR新座駅前へ赴き、活動を始めました。この日は武蔵野の雑木林の原風景を色濃く残す平林寺雑木林を目指しながら、高燥のこの地に引水し地域の耕地化に大きな役割を果たした野火止(のびどめ)用水を辿りました。駅前には水車のオブジェがあり、「雑木林とせせらぎのあるまち」というキャッチフレーズが掲げられていました。
新座市は東京都に隣接する東京のベッドタウンです。人口は16万人を超え、人口密度は約7千人に達しています。しかしながら、住宅密集地帯かというと必ずしもそういうわけでもなく、駅前に記されたメッセージのとおり雑木林もあって、住宅地の間には畑地も点在していまして、景観としてはのびやかな近郊住宅地域といった印象です。駅前から南へ、市のシンボルの一つでもある野火止用水をイメージした「野火止用水ふるさと小道」を歩きながら、住宅地と畑とが混在する穏やかな町並みを進みます。東京近郊ということと、関越自動車道に至近であるということからか、流通系の事業所も少なからず立地しているようでした。 交通量の多い国道254号をスロープの緩やかな歩道橋で越えて、平林寺を目指します。歩道橋を越えた先から現れる水路が野火止用水の本流で、ここから都県境付近にかけて及び平林寺に通水した支流(平林寺堀)の一部が復原され、埼玉県の史跡指定を受けています。野火止用水は、川越藩主松平伊豆守信綱が私領であったこの地域を開発するために1655(承応4)年に完成させた用水路です。そのため、野火止用水は伊豆殿堀とも呼ばれました。江戸の上水道である玉川上水を完成させた功績により同上水からの分水が認められたことから、現在の東京都小平市から志木市の新河岸川までを掘削したものです。用水路はこの地域の生活用水・飲料水として利用されましたが、高度経済成長期以降は都市化の進展で汚濁が進み、また上水道の普及により生活用水としての使命を終え、暗渠化・廃路化される変遷を経ました。そのため、往時の姿に復し地域の歴史的景観を保全するために、上記の復原事業が実施されたようです。
新座警察署交差点を南に折れ、市役所前を過ぎますと、西側には平林寺の広大な境内に道路が接するようになります。歩道と境内との間には、上述の復元された平林寺堀(野火止用水の支流)が流れています。さらに進みますと左側にも境内林が広がって、さながら森の中を道が行くような景観となります。左側の森は「睡足軒の森」と呼ばれます。昭和の電力王として、また著名な茶人としても知られる松永安左エ門(耳庵)が1938(昭和13)年に飛騨から田舎家を移築して、茶室を備えた「睡足居」とし、平林寺が承継し宿寮睡足軒として利用したのを経て2002(平成14)年からは新座市に無償貸与されて現在に至ります。紅葉の名所としても知られる平林寺の総門前は多くの人々が訪れていました。平林寺の創建は1375 (永和元)年。現在のさいたま市岩槻区においてでした。1663(寛文3)年に前述の松平信綱の遺志により現在地に移転しています。 平林寺境内は国指定天然記念物平林寺境内林として貴重な武蔵野の雑木林が保存されています。クヌギ、コナラ、シデ、エゴなどの雑木林を中心に、シラカシやマツ、スギ、竹林などを含む典型的な武蔵野の里山の風情を今に伝えています。境内を周回する散策路沿いにはカエデが多く植栽されていまして、多くが真っ赤に染まる様はとても美しくて、筆舌に尽くしがたい風景が広がっていました。野火止塚や業平塚と呼ばれる塚などの地域の歴史を感じさせるような事物も存在しています。境内をゆっくりと散策しながら、季節の移ろいと地域の原風景たる雑木林のみずみずしさとを堪能しました。 平林寺を出た後は、境内の南を回り込むように進み、西に接して南流する野火止用水の本流を跡付けました。本流を渡る橋の名前は「伊豆殿橋」でした。 |
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