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関東の諸都市・地域を歩く
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#83 横浜市鶴見を歩く 〜臨海工業地帯に接する市街地〜 2013年12月21日、菊名から新横浜まで歩いた私は、新横浜駅前から鶴見駅行きのバスに乗り、横浜市の東の玄関口に位置する鶴見へと向かいました。新横浜と鶴見とは北寺尾や東寺尾地区などがある丘陵を挟んで至近で、丘陵上はほぼ住宅地域として開発されていることから、主要な接続駅である両駅を連絡するバス路線が運行されているということなのでしょう。バスは丘陵に展開する宅地を縫うように進み、曹洞宗大本山の総持寺の横を下って、鶴見駅西口のバスプールへと到着しました。駅周辺には中小の業務ビルが林立しており、丘陵地の麓という場所柄もあって、かなり密度の高い市街地が形成されていました。
駅構内を通過し、旧東海道筋に面する東口へ移動します。町田市の北部に源を発し、横浜市内陸部の丘陵を縫うように流下する鶴見川の河口近くの蛇行する部分の右岸にあたる鶴見は、旧東海道に沿って街村状に発達した町場をその基礎としています。旧東海道は鶴見川の右岸を沿うように南下して、生麦地区へと進んでいました。鶴見駅の東口を南北に通過する「鶴見東口駅前通り」から京急鶴見駅を挟んで南へ、下野谷町入口交差点で第一京浜を斜めに横断、JR国道駅の東を生麦地区へと続くルートが旧東海道の道筋です。生麦四丁目辺りからは東海道は海岸線を進んでいたため、このあたりがかつては鶴見川の河口でした。 鶴見川を越えた左岸の潮田町あたりを含めて低地帯は水田や農村的な集落が広がっていたことが明治期の地勢図からは読み取れます。海に迫る丘陵地の裾と、海岸線と間を東海道が進み、その沿線に市街地が発達、海側の低地には田園風景が続いていた、というのがこの地域近代以前までの姿でした。現代の鶴見駅周辺は、JRと京急の駅が間近に立地して、駅を中心に多くの商業施設や業務ビルが集積して、京浜間の主要な市街地の一つとして機能しています。そして、沿岸部は高度経済成長期を通じて埋め立てられ、京浜工業地域の一角として急激にその姿を変貌させました。鶴見東口駅前通りを北へ、鶴見川へ向かって街を歩きますと、道路の両側を中層のビルが埋める中、ここがかつての東海道へあることや、代々名主を務めた家の屋敷跡(2001(平成13)年までは現存していたようです)であることを説明する表示が設置されていまして、そうした掲示が往時の町の様子を伝えていました。
通りをさらに北へ歩きますと、左手のビルの谷間に歴史を感じさせる鳥居があるのが目に入りました。1920(大正9)年に現在の名前に改められるまでは、杉山大明神(杉山神社)と呼ばれていた鶴見神社がそこには鎮座していました。駅前通りへ向かって真っすぐにのびる参道には、茅の輪くぐりが設けられていまして、都市化し尽された地域にあって、昔ながらの町場の雰囲気を感じることができました。鶴見川に近づきますと、市街地の密度もやや小さくなって、青空が徐々にその面積を大きくしていきます。瓦を乗せた板塀のある民家も見かけました。流れも緩やかな鶴見川は、透明な冬空の青を一面に受け止めて、大都市圏の只中となった地域を穏やかに見つめているようにそこにありました。 再び駅前へ戻り、少し南にある京浜東北線上を通過する歩道橋を越えて、総持寺へ。もともと石川県輪島市にあった寺院が1911(明治44)年にこの地に移転し、永平寺(福井県)と並ぶ曹洞宗大本山として多くの門徒の修行の場となっています。広大な境内には多くの堂宇が建立されていまして、都市の喧騒から離れた深閑を存分に感じることができました。鶴見駅は、日本最初の鉄道が新橋・横浜間に正式開通した時(1872年10月15日、明治5年9月12日)に設置された、わが国でも有数の歴史を持つ駅です。それ以来地域は目まぐるしくその姿を変容させて、大都市圏内におけるローカル拠点の典型たる市街地となりましたが、鶴見駅周辺は辿った軌跡は、主要街道筋から駅前へと市街化の重心がシフトし成長するという、今日多くの地域で認められる都市化の態様におけるまさに原点であったといえるのかもしれません。 |
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