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関東の諸都市・地域を歩く


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#9 シリーズ埼玉県北の都市群(2) 〜妻沼・熊谷散歩〜

私の住む太田市を通過してきた国道407号線は、刀水橋(とうすいばし)で利根川を越えると、ゆるやかなカーブを描いて田園の中を颯爽と進んでいきます。刀水橋のたもとから南東へ分かれる旧道を進むと、程なくして妻沼の町へと入ります。妻沼といえば、壮大な境内と伽藍を持つ聖天山歓喜院(しょうてんざんかんぎいん)の門前町です。貴惣門、中門(四脚門)、仁王門に続く本殿は国重文。本尊の錫杖は歓喜天像、左右に脇侍の童児、環外に四天王座を配し、13年に1度開帳される秘仏なのだそうです。町は県道太田熊谷線の旧街道を主軸とし、聖天山の歓喜院と本坊の間を東西に抜ける県道本庄妻沼線沿線に展開していまして、趣のある重厚な町並みが印象的です。はじめて妻沼の市街地を通過したときは、その想像以上に立派な町の佇まいに新鮮な感動を覚えたものでした。妻沼町は2005年10月1日に熊谷市と大里町と合併して新生「熊谷市」になります。町の名前は変遷しても、壮大な聖天様と豊かな容貌を見せる市街地の姿は妻沼の財産でありつづけることと思います。

熊谷市は、人口規模こそ20万人に満たないまちです。しかしながら、新幹線の停車駅として、埼玉県北部の中核的な都市としてその中心性・中枢性は高く、一見して駅前の景観は人口規模以上の迫力と活気を見せているようです。北口・南口双方とも多くの路線バスが乗り入れていまして、町を歩く人の多さは近隣の都市では抜きん出ているのではないでしょうか。モータリゼーションの進んだ現在では、熊谷駅で自動車から電車に乗り換えて首都圏方面へ移動していく需要も多いことから、南口周辺を中心に数多くの駐車された自家用車を目にすることができます。自家用車中心の生活圏域にあって、首都圏との接点ともなっている熊谷市の性質を端的に表している事象であるといえるのではないでしょうか。華々しい駅前の業務地区を歩き、シンボルロードとして整備の進んだ星川通りを過ぎますと、国道17号線へと至ります。行き交う自動車の絶えないその幹線道路は、熊谷駅入口から八木橋デパートのあるあたりまでの区間が特に市街地の密度が高く、交差点の歩道橋上から眺める町並みにも重厚感が漂います。国道17号線のこの区間は、旧中山道の熊谷宿の範囲にほぼ相当します。

妻沼の町並み

妻沼の町並み(聖天山南側付近)
(妻沼町妻沼、2005.1.29撮影)

聖天山・貴惣門

聖天山・貴惣門
(妻沼町妻沼、2005.1.29撮影)


熊谷駅南口

熊谷駅南口、駐車場群
(熊谷市桜木町一丁目、2005.1.29撮影)
熊谷駅北口

熊谷駅北口の景観
(熊谷市筑波二/三丁目、2005.1.29撮影)


上述のとおり、妻沼町は熊谷市、大里町と共に2005年10月1日に合併し、新しい熊谷市となっています。

熊谷市は1933(昭和8)年4月1日、埼玉県下では川越市(1922(大正11)年12月1日施行)に続き、2番目の市として市制施行しました。江戸期、江戸の近郊では防衛上の理由から大きな石高の城下町は作られず、所領も天領から旗本領、諸藩領の地区がモザイク状に分布していまして、結果として大きな都市が形成されにくい条件下にありました。比較的早い段階から市制を施行した都市には城下町を基礎とする都市が多い中にあって、宿場町からの移行を遂げた熊谷の中心性がどのようなものであったかが偲ばれます。市役所から南へ伸びる道路の西側には、平安期から存続するという古社高城神社が佇みます。国道に接して大きな鳥居があり、そこからまっすぐに参道が伸びている様子からも、ここが商家の建ち並ぶ宿場町であったことが窺われるようですね。さらに西へ、穏やかな住宅街を進みますと、千形(ちかた)神社に至ります。神社の一角には、陣屋跡であることを示す表示があります。熊谷宿は、忍(おし)藩(忍は現在の行田市)の領内に組み込まれていまして、その陣屋が設置されていたことを示すものです。千形神社南の路地の西には、大きな瓦屋根が印象的な熊谷寺があります。「くまがやでら」ではなく、「ゆうこくじ」と読みます。天正年間(1573〜92)に幡随意(ばんずいい)上人によって、熊谷直実の居館跡地に建立された寺院であるとされているようです。熊谷直実(くまがいなおざね)は、平安末期から熊谷を領した武士で、「一の谷の戦い」で平敦盛を討ち取り、後に仏門に入ったことでも知られる武将です。熊谷駅前には熊谷直実の騎馬像が建てられています。ちなみにこの像の作者は長崎市の平和祈念像の作者として著名な北村西望です。また、1873(明治6)年から約3年間、熊谷寺の庫裏には当時設置されていた熊谷県の仮庁舎が置かれていたのだそうです。

国道17号線

国道17号線、熊谷駅北口入口から西方向
(熊谷市筑波一丁目、2005.1.29撮影)

星川通り

星川通りの景観
(熊谷市星川一丁目、2005.1.29撮影)

高城神社

高城神社
(熊谷市宮町一丁目、2005.1.29撮影)
熊谷寺

熊谷寺(ゆうこくじ)
(熊谷市仲町、2005.1.29撮影)

熊谷寺に隣接して、八木橋デパートの店舗があります。デパートの周辺は買い物客で溢れていました。この八木橋デパートは、旧中山道のルート上に建てられていることでも知られていますね。デパート1階のフロアを西北西から東南東方向へ横切るルートが旧中山道のルートを踏襲するもので、デパートの出入口も西側、東側共にそのルートの上に設置されています。八木橋デパートから国道17号を挟んで南側に、熊谷宿の本陣跡の説明表示が立てられています。熊谷宿の本陣は、1884(明治20)年の大火と1945(昭和20)年の戦災によって灰燼に帰してしまい、原形を留めていません。かつて本陣を営んだ竹井家に残る絵図の控えにより、この本陣は中山道に面し南は星川にまで達した、間口14間5尺(約27メートル)の壮大な施設であったことが分かっていまして、現存する本陣と比較しても、全国屈指の規模であったことが知られています。本陣跡の南には、庭園・星渓園(せいけいえん)があります。星川の水源でもあるこの庭園は、かつて荒川の北条堤が決壊して形成された「玉の池」を中心とした回遊式庭園です。現在では玉の池へ水を供給していた湧き水が涸れてしまったため、荒川の水が引き入れられているとのことです。この庭園は、上述した本陣を幕末に継いだ竹井澹如(たんじょ)が別邸を構えた場所であり、庭園も澹如によって作られたものであるそうです。澹如翁は1876(明治12)年に初代埼玉県議会議長を務めた人物で、議員引退は政府の要職への就任を固辞し、熊谷地域の振興に尽力したことで知られます。

熊谷の町の南には、武蔵の大地を潤す大河、荒川が悠然と流れていました。荒川の堤防には、約2キロにわたって、およそ400本のソメイヨシノが植えられています。日本さくらの会によって「さくらの名所百選」の1つに選ばれた桜の名所です。江戸期から桜の名所として知られていた熊谷桜堤は、明治に入り樹勢が衰え、枯れてしまいました。1880(明治16)年、上述の竹井澹如らは熊谷桜を復活させようと、ら450本の桜を購入し、植樹したのだそうです。現在の桜並木は1952(昭和27)年、市制20周年記念事業として、衰えが見え始めた旧堤の並木に変わって植えられました。宿場町・商業地として、また鉄道開通後は地域の交通の要として、一貫して周辺地域の中枢として栄えた熊谷の歴史を、桜並木がそのままに引き継いできた、そう言えるのかもしれませんね。


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