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シリーズ京都を歩く
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9.山裾の寺社をめぐる |
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第二十四段 “千代の古道”をたどる 〜冬空の悲哀〜 嵯峨野は都の西郊の景勝地として、古来より身近な遊興・隠棲の地として存在してきたように思います。嵯峨野や東側の太秦一帯は旧葛野(かどの)郡の範域で、これらのエリアが京都市に編入されるのは主に大正期以降のことでした。嵯峨野は現在では京都の町の一部さながらにとらえられますが、平安京の東半分(左京)を基盤として成長した京都の中心市街地とは厳然と両者を識別する意識があった(京都ローカルの考え方では“ある”?)ものと思います。嵯峨野は、都会の喧騒を逸脱した雰囲気に浸りながらも、すぐに町中に戻ることのできる、貴重な「別世界」であったといえるのかもしれません。 初冬の雨中、嵐山から小倉山のふもとを経て嵯峨野を歩いてきた私は、清凉寺の境内を巡りながら、大覚寺門前の穏やかな住宅地の中を進んでいました。清凉寺に到達した頃から急速に回復した天候の下、雲の合間から覗く青空が郊外の住宅地域をよりしっとりとした空気に包みこんでいるように感じられます。
大覚寺は、真言宗大覚寺派大本山の門跡寺院で、嵯峨天皇の離宮嵯峨院をその前身としています。隣接する大沢池は庭湖とも呼ばれ、この離宮の庭池として造られた、日本最古の苑池ともいわれています。鎌倉時代から南北朝期にかけて院政の舞台ともなったことから、「嵯峨御所」とも呼ばれる、皇室ゆかりの寺院です。壮麗な伽藍を見学しながら、初冬の装いへと変化しつつある境内や苑池を散策しました。 大沢池の北側には、藤原公任(ふじわらのきんとう)が詠んだ百人一首(滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ)で知られる名古曽滝の石組みが残されています。創建時には壮大な伽藍を擁していた寺院は、その後の兵火や再興に伴いその一部が野に帰していたままであったとの説明板が現地に設置されてありました。発掘調査により復元されたという名古曽滝の鑓水跡には、真っ赤に燃えるようなカエデの葉がうっすらと積もっていて、往時には雅な輝きを放っていたであろう優美な庭園の在りし日の姿と、その後の存亡を象徴しているようにも感じました。
大覚寺を後にして、北嵯峨ののびやかな田園の中を歩みました。愛宕山や高雄山、遍照寺山(嵯峨富士)をはじめとした山々のゆるやかな稜線に抱かれるような嵯峨野の田園風景は、本当に穏やかで、山裾にたおやかに展開するその情景は、時代が古代から現代に移り変わろうとも、その本質に大きな違いはないのではないかと感じさせました。大覚寺の境内をかすめるように流れる有栖川に沿うように東へ進み、広沢池のほとりへ達しました。広沢池は、平安時代中期に、寛朝(かんちょう)僧正が池の北側に遍照寺を建立した際に造られたと伝承されるものの、灌漑用の池として建設されたとする説もあるようです。大沢池とともに観月の名所として数多くの歌人に愛されました。ほとりに鎮座する児(ちご)神社は、僧正が他界した際に悲しんで池に身を沈めという僧正の稚児を慰めるために建立されたものと伝えられています。現在は鯉の養殖がおこなわれている池は、冬季に水を抜き鯉の収穫が行われるため、ほとんど水のない姿を見せていました。 |
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