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宮古列島、炎天陸離の空と海
2017年8月下旬、宮古島とその周辺の島々を訪れました。隆起珊瑚礁からなる島々は基本的には平坦で、陸と海とが隣り合うようなきらめきに満ちていました。暦の上では初秋でしたが、南国の暑さは容赦なく照りつけて、まさに炎天にふさわしい雄々しさを見せていました。 |
多良間島の海 (多良間村字仲筋、2017.8.26撮影) |
宮古島・東平安名岬の海 (宮古島市城辺字保良、2017.8.27撮影) |
訪問者カウンタ ページ設置:2018年7月3日 |
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平良市街地、綾道(あやんつ)を歩く 〜歴史を感じる史跡をたどる道〜 2017年8月25日、羽田空港から那覇を経由し到着した宮古空港は、このうえないくっきりとした青空の下にありました。タクシーで滞在するホテルへ向かい荷を下ろした後、宮古島の中心市街地、平良(ひらら)の市街地をめぐることとしました。平良は、宮古島の伝統的な発音では「ぴざら」と称されていたようで、人が住むのにふさわしい土地の意味であると、町中に設置されていた表示板に開設されていました。そこでは、綾道(あやんつ)と名付けられた、市街地に点在する史跡をたどるルートが紹介されていました。宮古の言葉で「美しい道」の意である綾道のスタートは、市役所に隣接した場所にある住屋御嶽(すみやーうたき)。御嶽は沖縄地方における祭祀の場となる聖域を指します。周囲を建物や道路に囲まれながらも、御嶽の中は木々に囲まれて、清浄な空気に包まれていました。
宮古島は沖縄本島と石垣島のほぼ中間に位置する、隆起珊瑚礁を起源とした島です。伊良部島や池間島、西にやや離れた場所に位置する多良間島や水納島などとともに宮古列島を構成しています。そのため、島は概ね平坦な地形であり、山岳を有する石垣島や西表島などとは好対照をなします。そういった印象を持っていたため、平良の市街地から海岸に向かっては、けっこうな急坂となっていたことには新鮮な驚きを覚えました。そして、海岸段丘崖に相当するものと思われるその急崖落差は、この島が存立してきた発達史をそのまま表わしているということを実感させました。 綾道は急崖に沿うように市街地の中を進みます。「ドイツ皇帝博愛記念碑(県指定史跡)」は、1873(明治6)年に宮古島沖で漂流、座礁したドイツ商船の乗組員を島民が救助し手厚くもてなしたことに感謝したドイツ皇帝が建立したものであるといいます。記念碑を一瞥した後、日本最南端の神社としても知られる宮古神社へ。2010(平成22)年に旧地に再建されたという社殿はとても鮮やかで、青空に映えていました。高台となっている境内からは、斜面に広がる平良市街地や港、伊良部大橋でつながる伊良部島の島影も見通すことができました。
宮古神社から道路を挟んで祥雲寺が正対しています。寺院自体は現代的な佇まいですが、巡らされた石垣は18世紀頃に築かれたと想定される、平良市街地においても貴重な建造物であると説明されていました。琉球石灰岩が積まれた石垣が連なる風景は、やはり琉球建築の風合いを感じさせる宮古神社の社殿とともに、地域の歴史を静かに語りかけているようでした。そうした伝統的な軌跡は、宮古神社から港の方向へと下る道筋にも、「漲水石畳道」として残されていました。 その古い石畳の小道の先には、宮古島の創世神話や人蛇婚説話などに彩られる漲水(はりみず)御嶽が鮮やかな緑に包まれていました。南側の石垣は仲宗根豊親(なかそねとぅいみや)が八重山のオヤケアカハチとの戦勝を記念し1500年に築いたとの記述が見えるという、宮古島でも最も古い建造物の一つと目されています。現在でも多くの定期便が就航する平良港に接する場所に鎮座する漲水御嶽が存在することは、ここが古くから開かれた地であり、その繁華が現在でも引き継がれていることを考えますと、とても尊いことであるように感じます。町並みに溶け込むような御嶽の風景に、そうしたみずみずしい感慨を抱きました。漲水御嶽と石垣は市指定史跡となっています。
漲水御嶽を見学した後は、左手に現代港湾となっている平良港の施設群を見ながら、かつての海岸線に沿うと思われる道路を北へ歩きます。8月下旬の宮古島は日射しがとても強烈で、歩くたびに体力と水分とが奪われていくような感覚になりました。水分補給を心がけながら、炎天の下の綾道を辿ります。程なくして、左手の傾斜地に大きな石積みの墳墓があるのが確認できました。漲水御嶽の項でもご紹介している仲宗根豊見親(15世紀末から16世紀初めにかけての宮古の支配者)が父真誉の子豊見親(まゆぬふふぁ)の霊を弔うために建立したものであるといいます。宮古島在来の「ミャーカ」と呼ばれる風葬墓地と沖縄本島の横穴式墓地との折衷様式をとることが特徴です。西の海を見下ろすように広がる巨大な石積みの墓所は、現代の町並みの中にあってひときわ存在感を保っていまして、遙か昔にこの地で権勢を誇った氏族の態様を端的に表現していました。北側にある仲宗根豊見親の三男知利真良豊見親(ちりまらとぅいみや)の墓と、仲宗根豊見親を始祖とする忠導氏一門の後妻を祀った「アントマ墓」とともに、国指定重要有形文化財「豊見親墓」として指定を受けています。 大規模な墳墓の偉容に触れた後は、市街地の中に点在する史跡や御嶽を訪ねる行程となりました。最初に訪れたのは真玉(まだま)御嶽。御嶽の森にはガジュマルもあって、南国の植生によって覆われる風景は地域における大切な場所として守られてきた背景を感じさせます。御嶽からさらに綾道を進みますと、「ぶばかり石(いす)」と呼ばれる石柱が残されています。人頭税石とも呼ばれまして、この石より身長が高くなったら人頭税を課せられたという言い伝えも残されていると言います。宮古島の近世では数え15歳から50歳までの男女に人頭税が課せられ、1903(明治36)年に廃されるまで260年あまり、人々を苦しめてきたという史実があります。ただし、この石柱自体は琉球列島の一部地域に存在する石柱信仰との関わりが指摘され、人頭税の伝説とは関わりは無いとの説明がなされていました。この石に託して人頭税の苦難を語り継いできた人々の声に耳を傾けることの重要性を傍らの説明板は説いていました。その後も、市街地を歩きながら、多くの御嶽や井戸などの史跡を巡りました。大和井(やまとがー)は国指定史跡で、1720年頃に掘られたという洞井です。この井戸は限られた役人などのみが使用した井戸で、見事な石積みが目を引きました。
宮古島の中心市街地である平良の町を巡った後は、さすがに炎天下を歩いてきたため疲労がたまっており、夕刻までホテルの一室で休息をとっていました。気象庁の過去の観測結果を参照しますとこの日の最高気温は32〜33度であり、地元でもしばしば経験する気温であったものの、体力の消耗はかなりのものでした。空気の温度以上に強烈な日射が大きく影響したのだと思います。市街地に接するパイナガマビーチへ向かい、抜けるような藍色に染まる空に沈む夕日を眺めました。日没後の平良の歓楽街は多くの観光客で溢れていまして、南国の磊落な気風の一端に触れたような気がいたしました。 多良間島の空と海 〜フクギが揺れる島の自然に触れる〜 翌8月26日も朝からよい天気に恵まれました。この日は宮古列島にあって宮古島を中心とした宮古島市の市域に含まれず、唯一村政を維持する多良間島へ向かいます。
行政上の多良間村は多良間島とその北方に位置する水納島からなります。宮古島と石垣島のほぼ中間に位置するこの島は、宮古島と同様隆起珊瑚礁によって形成されています。その面積19.39平方キロメートルで、東西にやや潰れた楕円形をしています。宮古島からは、一日二往復の航空便で約20分のフライトで到着できます。プロペラ機の機内から眺める風景は、宮古島の上空から大海原へと移り変わり、やがて環礁を伴った本当に平坦な多良間島が現れると、次の瞬間にはその島へと降り立っていたような印象でした。 空港から島へ上陸後は、レンタサイクルを予約していた店舗の方に送迎していただき、島の北部の中央に位置する「集落」へ向かいました。多良間島には家屋が密集する場所はこの集落しか存在していません。そのため、単に「集落」と表現するだけで事足りてしまうようです。その集落へ向かう間、島の中央部一帯に開墾された一面のサトウキビ畑の風景に触れて、この自然に溢れた島を訪れた感慨に浸りました。空港に置かれていたガイドマップを手がかりに、自転車でまずは集落内を巡ってみることといたしました。小学校の脇を抜け、役場の前を通って、ウプメーカと呼ばれる、土原豊見親のミャーカへ。ミャーカとは宮古列島に分布する石造墳墓のことです。十六世紀初頭における島の首長で、前出のオヤケアカハチや与那国の鬼虎征討で活躍、島の開拓と振興に尽くした土原豊見親(んたばる とぅゆみゃ)の墓です。石積みのアーチとその奥の屋根型の石積みがあって墓碑が建立されています。南国の日射しを受けるその墳墓は、琉球王国が成立する過程において各島の統治者が群雄割拠した歴史を偲ばせるとともに、そうした地域の歴史を投影する史跡が現代においても当たり前に集落内に存立し保護されていることに好感を持ちました。
ウプメーカを後にして、サトウキビ畑の揺れる一角を通過した先には、村社・多良間神社が鎮座していました。この神社の創建には、明治時代に小学校校舎を瓦葺きで新築する計画を当時の校長が立て、その資材に御嶽の古木を用いようとしたところ、たたりを恐れた村民が手を付けようとしない中、校長が英断して伐採、安心して村人もそれに加わったという史実があります。結局けが人は出ず、それが土原豊見親の加護によるものであるとして、豊見親を祀る神社として造営されました。二度ウプメーカの近くを通り、海岸方向へ進みますと、「アマガー」と呼ばれる古い石垣に囲まれた一角が目にとまりました。宮古島の項でも登場していますが、「ガー」とは水が湧き出す場所のことで、この井戸がこの地に集落を存立させてきたのではないかとも考量されているようです。水道が普及するまでは、この湧き水は島民にとって欠かすことのできないものであったようです。 多良間島の集落を彩る緑として、フクギは象徴的な存在です。集落のあちこちで建物を覆うように繁茂していますし、多良間神社の社叢もフクギによって占められていました。沖縄や奄美では伝統的に防風林・防潮林として植栽されていまして、美しい村落風景を醸成する重要な要素となっています。運城御嶽のフクギ群落は大木も多く、他にも多くの亜熱帯性の植生に富んでいることから、多良間島の原植生を思わせる植物相を呈しているとも思われ、県指定の天然記念物ともなっています。宮古遠見台や泊御嶽、仕上世所跡などの史跡を訪ねながら、前泊港海岸へと出ました。集落から海岸へ続く道路は「トゥプリ」と呼ばれる海岸への出入口を指す場所へとつながり、島の沿岸を周回する道路へと接続しています。多良間島の海は、海岸の美しい白色を溶け込ませているようなクリアなマリンブルーをいっぱいに表現していまして、夏のようにきらめく空と隣り合っていました。沖には多良間村のもう一つの有人島である水納島の島影も確認することができました。
海岸風景を眺望し、再び集落周遊へと自転車を戻らせます。宮古島の平良市街地ほどではありませんが、多良間島でも海岸近くはやや急な坂道となっていまして、隆起に伴う海食地形を反映していました。多良間の「集落」は「仲筋」と「塩川」の2つの字によって構成されています。海へ出るまでに通過した集落の西側のエリアが仲筋で、神木のアカギがおおらかに樹勢を広げる嶺間御嶽からシュガー(「塩川」の本来の読み方)ガー、ヒトマタウガンへと辿って進んだ東側が「塩川」となります。ウガン(御願)は、豊年祭として旧暦八月に執り行われる八月踊り(国重要無形文化財)の舞台となる場所です。この聖域には屋根付きの舞台が設けられていまして、華やかに挙行される八月踊りの雰囲気の一端を感じることができました。島唯一の信号機のある商店が集まる交差点を経て東へ。広大なサトウキビ畑が展開するようになった町外れに、塩川御嶽へと続く参道に連なるフクギ並木がしなやかな緑のラインを作っていました。御嶽へと続くおよそ650メートルの参道は両脇をフクギの並木によって守られていまして、古来より信仰の対象とされてきた御嶽の神聖性を物語っているように思われました。赤瓦屋根の御嶽の周囲も豊かな植物群落によって覆われています。フクギの老木をはじめ、イヌマキ、テリハボク、リュウキュウコクタンなどが繁茂する社叢は、この島が独自に育んだ文化の粋を凝縮したようなたおやかさに満ちていました。 塩川御嶽訪問後は集落の南側を辿りながら、多くの史跡を探索しました。集落の南側を東西に続く抱護林はフクギを主体に、テリハボク、デイゴ、モクタチバナ、イヌマキなどが植栽された、まさに集落を風害から護るための林です。依然として照りつける灼熱の日光の下、幾ばくかの安らぎを覚える林に見守られるように、ナガシガーから溜池、ふるさと民俗学習館の前を通り、島の最高点(標高34メートル)の場所にある八重山遠見台の展望塔へ。塔上からは平坦な多良間島を360度見通すことができます。空からは小さく見えた島も、ここから見渡すとどこまでも茫漠とした命の輝きに溢れた大地のように見えまして、空と海と大地とが同じきらめきのなかでコラボレーションする風景はとても印象的なものでした。「八重山遠見台」の名のとおり、遙か西方には石垣島の山並みも遠望することができました。眼下の集落はしたたるような緑に包まれるような佇まいを見せていまして、その光景はこの地に人が集い、作り上げてきた生活の舞台としての美しさを内包している、素晴らしい集落景観そのものでした。
八重山遠見台で多良間島を渡る風に吹かれ、その余韻に浸りながら中筋地区の史跡を訪ねました。同地区の八月踊りの開催場所である土原ウガンや、ブナジェーウガン、シュレーウガンと進み、多くの商店が建ち並ぶ島の中心部で休息後、普天間港方面へと足を伸ばしました。宮古島からの船便(フェリー)が約2時間かけて到達する普天間港の周辺は、簡素な施設を除いては町並みなどは無くて、港湾であることを考えなければフクギなどの防風林に覆われた海岸そのままの風景が続いている場所でした。その森の中には航海の安全を祈願する普天間御嶽が祀られていました。ここから島の南から西へ、周回道路を自転車を走らせながら、宝石のような海と爽快な風貌のサトウキビ畑、その両者をつなぐ陸離たる炎天の空とを体いっぱいに感じました。あまりの暑さに辟易しながらも、海から時折吹き渡る風は幾ばくかの涼やかさを持ち合わせていまして、猛暑を少し緩和させてくれました。 多良間空港での休息して自転車を借りた店舗へ戻るべく集落へ戻る途中、スコールのような雨が刹那大地に降り注ぎました。木の下で小康状態となるのを待ち、再び全天を支配した青空の鮮やかさは、そのささやかな湿り気さえ瞬時に忘れさせてしまう猛々しさがありました。集落に戻り、自転車を返却後空港に送迎してもらい、空路で宮古島へ戻ってこの日の多良間島訪問を終えました。
島の自然を尊重して豊かな文化を醸成し、その土壌を今日まで承継してきた島の日常は、フクギの森、琉球石灰岩の石垣、御嶽やガーの容貌、その傍らで草を食む山羊、集落を彩るハイビスカスやブーゲンビリアの色彩、きらめきの海と空、それらの島を形づくる事物にしなやかに包括されていたように思いました。 |
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後半へ続く |
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