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長崎を“さるく”

 2005年8月、広島・長崎フィールドワーク(地域文「きょうちくとうの夏」を参照)の行程の中で訪れた長崎の町は、猛々しい夏の青空の下、穏やかなやさしさにあふれていたように感じられました。長崎ののびやかな町を“さるき”ながら、その豊かな地域性を存分に感じてまいりました。

大浦天主堂

大浦天主堂
(長崎市南山手町、2005.8.9撮影)
稲佐山からの俯瞰

稲佐山より長崎市街地を望む
(長崎市稲佐町、2005.8.9撮影)

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ページ設置:2006年5月24日

坂の町長崎

 2005年8月8日の夕刻福江港を出発したフェリーは、満天の星が瞬く長崎港へと到着しました。この夜は夏真っ盛りの季節としては珍しく初冬のように星がたくさん見えていまして、たいへんシーイングがよかったのを記憶しています。稲佐山から見下ろした長崎の町もそんな夜空に負けないくらいの輝かしさを呈していました。長崎の夜景を見るのはこれが初めてだったこともあり、その美しさもあいまって、たいへん感動いたしました。夜景の中でもひときわ美しいものとして知られる長崎の夜景は、この町が紡いできたかけがえのない歴史と、この町の持つこの上ないやさしさとを内包したものであると、心から感じました。

 60年目となる原爆の日、長崎フィールドワークは始まりました。駅前にあるホテルを出発し、複合商業ビル「アミュプラザ長崎」として大きく様変わりした長崎駅前を通過し、NHKの横のやや急な坂を上り、西坂公園へと至りました。1597(慶長元)年12月、この丘において6名の外国人宣教師と20名の日本人信者とが豊臣秀吉の禁教令のため処刑されました。「日本二十六聖人殉教地」として県指定史跡の指定を受ける西坂公園は、朝のさわやかな日差しを受けながら、静かな空気に包まれていました。この殉教の出来事は遠くヨーロッパに伝わり、1862(文久2)年、時のローマ教皇ピオ9世はこの26人の殉教者を聖人に列し、「日本二十六聖人」と称せられました。1950(昭和25)年には、ローマ教皇ピオ12世により、この西坂の地がカトリック教徒の公式巡礼地として指定されているのだそうです。スペインの有名な建築家、アントニオ・ガウディの創作手法のエッセンスが取り入れられているという西坂教会の2つの塔と穏やかな緑を背景にして26人の聖人をかたどったレリーフが厳かに建ち、長崎の町を緩やかに見下ろしています。きょうちくとうのうすい赤色の花が周囲にたくさん咲いていて、晩夏の季節感を演出しています。公園の坂下、猛々しく膨張した長崎の町は、その静けさの延長のなか、ゆっくりと動き出しているように見えました。西坂公園から再び坂を降りて、路面電車が軽快に走っている国道34号線を進みました。

長崎駅前電停

長崎駅前電停
(長崎市大黒町、2005.8.9撮影)
日本二十六聖人殉教地

日本二十六聖人殉教地
(長崎市西坂町、2005.8.9撮影)
西坂公園からの景観

西坂公園から長崎駅方向を見る
(長崎市西坂町、2005.8.9撮影)
宝町付近

宝町電停西からJR線越しに市街地を望む
(長崎市幸町、2005.8.9撮影)

長崎は坂の町といわれます。電車通りとなっている国道34号線沿いを歩いていますと、その一端が実感されます。中心市街地を形成する幹線道路沿いに高層建築物が林立するという、日本の大都市地域ではごくありふれた風景が展開されるその両側にまさに迫りくるように、中心市街地の近傍としては不釣合いなほどの“急峻な”地形が形成されています。そしてその斜面はその傾斜には似つかわしくないと思われるほど多くの中高層のマンションや住宅が根を下ろしていて、メインストリート沿いの市街地と一体的な景観を形づくっていました。長崎の場合、それが自然な都市景観としてとても美しく目に映ります。穏やかな丘陵の緑と坂に寄り添うような建築物群、それが市街地の高密な建造物群につながっていき、その先の浦上川や長崎湾のなめらかな水面へと受け継がれていくようすがほんとうにきれいで、長崎らしい風景であると思えてきます。この後もオランダ坂や諏訪神社の石段などたくさんの坂道に出会うこととなります。町の中に息づく坂道の存在感は、長崎が単に「坂の多い町」なのではなく、「坂の町」なのだということを示しているように思います。宝町の交差点を西へ、稲佐山方面へ向かう道すがら、JR線の下をくぐったあたりから眺めた長崎市街地はとびきりの輝きに包まれていました。

南山手から出島へ

 平和公園周辺でのフィールドワークを終えて、松山町電停から路面電車に乗り込み、乗継が可能な築町電停にて石橋行きの5番系統に乗り換えて、南山手へ向かいます。大浦天主堂下の電停で下車し、観光化した商店街を抜けて進みます。土産物店の並ぶ一角に、ひときわ存在感を放つ石造りの洋館−旧香港上海銀行長崎支店記念館−があって、旧外国人居留地域のなかに振って沸いたようなこの一帯の猥雑な雰囲気を緩和していました。この建物ができたのは1904(明治37)年。同時期における建築界の異才・下田菊太郎が残したわが国唯一の現存遺構として、また長崎市内における最大クラスの石造洋館として多くの市民に親しまれているのだそうです。現在ではコンサートなどが行われる多目的ホールとなっています。

 長崎市街地の南の山際に位置する「南山手」には、幕末の開港以来外国人居留地区の1つとなり、現在でもその名残を伝えているエリアとなっています。大浦天主堂は、そんな南山手の歴史を語る建造物の1つですね。輝かしい緑に囲まれながら夏の青空に向かって聳え立つ白亜の天主堂はたいへんに潔い印象です。地域と地域の歴史とそれをつないできた人々とを穏やかに見守ってきた天主堂は、現存する日本最古のものとして国宝に指定されています(1865(慶応元)年建立)。日本での地名を冠して呼ぶ習慣から大浦天主堂と通称されるこの天主堂は、正式には「日本二十六聖人殉教聖堂」といい、先にご紹介した西坂において殉教した二十六聖人を祀っています。聖堂はその西坂に正面を向けて建てられているのだそうです。やさしいマリア像の微笑と、「天主堂」と漢字で書かれたレリーフとの対比が、日本における教会建物の草創を感じさせます。聖堂内のステンドグラスも見事なものとして知られます。聖堂内で天主堂の歴史を伝える放送に耳を傾けながら、陽光にきらめくステンドグラスの美しさを堪能しました。当初のものはフランスのマン市にあるカルメル会の修道院から寄贈されたもの、原爆投下により破損後はパリのロジ工商会を通じ注文されたものに取って代わり、現在に至っているとのことです。

 大浦天主堂から西へ、グラバー園へ向かうルートはもはや長崎における定番の周遊コースですね。グラバー園は、旧外国人居留地であった南山手地区に点在した洋館を保存しようと港を見下ろす高台の敷地にそれらを集め公園としたものです。私が初めて長崎を訪れたのは1999年のこと。このときも同じ道筋をたどっていました。港や市街地の俯瞰、周辺地域ののびやかな住宅地域の景観、背景の緑あふれる丘陵景観、どれをとってもたいへんにたおやかな景観でして、高度に観光地化された現代にあっても、何度でも訪れたい長崎の絶景エリアであるように思います。高台のグラバー園内にあって一段と高い場所に移築された旧三菱重工造船所第2ドックハウスはそのとびきりの風景をより美しく眺望することができる絶好のスポットです。ベランダから長崎の港を行き交う船を間近に眺められます。ドックハウス手前の通路脇には、「居留地境界石柱」との説明版が付属した古い石柱がたくさん集められている一角があります。説明版は、「安政の開港により長崎市内に外国人居留地が設定され、渡来した外国人たちは、その居留地の中で仕事に精を出し、また生活を楽しみました。この石柱は外人居留地の境界を示すものです」との記述がなされていました。外国人居留地は一国の領土のうち、一定地域を限って外国人の居住・営業が認められた区域で、1899(明治32)年の条約改正発効によって廃止されるまでの間開港場を中心に存続しました。治外法権的な要素を持つ区画でしたから、その境界を示す石柱が設置されていたのでしょうか。地味な存在ながら、外国人居留地としての歴史を刻んだ事物として貴重なものと言えそうです。園内には園の名称ともなっている旧グラバー邸のほか、旧ウォーカー邸、旧リンガー邸、旧オルト邸などの洋館が色とりどりの花々や緑に彩られた園内に立ち並びます。そして、何と言っても長崎港から市街地方面へ開ける眺望です。このすばらしい極上の眺めはこの町の、いや日本におけるかけがえのない財産といっても過言ではないかもしれません。晩夏の猛々しい日差しの中、しばし美しい風景を眺めていました。湾内の小波の一つひとつが軽やかに日光をはらみながら瞬くさまも本当にきれいでした。


グラバー園より市街地方向

グラバー園より市街地方向を望む
(長崎市南山手町、2005.8.9撮影)
グラバー園より湾口を望む

グラバー園より長崎湾口方向を望む
(長崎市南山手町、2005.8.9撮影)
オランダ坂

オランダ坂
(長崎市東山手町、2005.8.9撮影)
ミニ出島

出島の景観(ミニ出島)
(長崎市出島町、2005.8.9撮影)

 南山手から「オランダ通り」と名づけられた路地を北東に進み、野口禰太郎記念美術館のシックな赤レンガの建物などを楽しみながら、やはり外国人居留地のあった東山手地区へと歩を進めてまいります。東山手町の入り口の角には、「大浦東山手居留地跡」の石碑がありました。傍らに設置された説明表示には、この大浦東山手地区も安政の開国以降長崎に設定された外国人居留区のあった場所の1つで、洋館が立ち並び、劇場やバー、事務所、ホテルなどが林立する洋風の町並みが出現したエリアであったことが語られています。また、表示には記述がなかった点の1つに、東山手地区は各国の領事館や礼拝堂がまとまっていた地域でもあったということも指摘できまして、当時は「領事館の丘」とも呼称されていたのだそうです。南山手と並んで国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。観光地化の進んだ南山手とは対照的に、領事館等の跡地にミッション系の学校が建設されたこともあって、より穏やかな佇まいが比較的よく保たれていることに好感します。

 旧湊会所(現在の税関の前身となる施設)跡地を示す石碑の前を過ぎますと、長崎において一般に「オランダ坂」として知られる、活水女子短大へ向かう石畳の坂の坂下に至ります。幕末の頃、長崎の人々は東洋人以外の外国人のことを鎖国時代も通商があったオランダになぞらえて「オランダさん」と言っていたようで、居留地であった東山手の坂も外国人が多く行き交ったことから次第に「オランダ坂」と呼ばれるようになったということなのだそうです。居留地の坂を示す普通名詞であったというわけですね。この石畳のオランダ坂をはじめとして、東山手地区には多くの洋館や石垣、石造りの溝、煉瓦の塀などが残されていまして、居留地時代を偲ばせます。石垣と石畳の景観が穏やかに展開するオランダ坂を歩きました。蔦や緑の樹木に包まれたしっとりとした風情が異国情緒あふれる洋館たちに囲まれて、長崎らしい風景を作り出しています。坂に接してある「東山手十二番館」は三角屋根の木造平屋造りのシンプルな洋館で、建造は1868(明治元)年、ロシア領事館として建設された建物です。正面中央の幅広い廊下と、大き目の部屋との構成がかつての領事館時代の特徴であるとのことです。幅広いベランダもあいまって、とてもゆったりとした雰囲気を感じさせる建物です。オランダ坂を散策後、近年開通した長崎出島道路の高架下をくぐり、中国風の楼閣がつくられた新地の湊公園を経て築町の電停を行き過ぎ、中島川の沿岸となったかつての出島に行き着きました。鎖国時代わが国唯一の公式の貿易の窓として開かれていた出島一帯は明治以後市街地の一部として埋め立てられて、中心市街地の一角となっています。長崎市では歴史ある出島地区をかつての形状に復元すべく、継続的な復元事業に取り組んでいます。


崇福寺三門

崇福寺三門
(長崎市鍛冶屋町、2005.8.9撮影)
崇福寺第一峰門

崇福寺第一峰門
(長崎市鍛冶屋町、2005.8.9撮影)
崇福寺より俯瞰

崇福寺より南東方向の町並みを俯瞰
(長崎市鍛冶屋町、2005.8.9撮影)
眼鏡橋

眼鏡橋
(長崎市魚の町、2005.8.9撮影)

寺町から諏訪神社へ

 出島を後にし、築町電停から1番系統の路面電車に乗って、国道324号線がすぐ横をすり抜ける正覚寺下電停にて下車、崇福寺(そうふくじ)へ向かいました。崇福寺は1629(寛永6)年に現在の中国・福建省出身で長崎に永住した商人たちによって建てられた中国様式の寺院(唐寺)で、かつては「福州寺」とも呼ばれていたお寺です。中国との関わりの深い長崎にはいくつかの唐寺があり、中でもこの崇福寺と興福寺、福済寺は「唐三か寺」と呼ばれ親しまれています。長崎でも有数の繁華街・銅座を控え、かつての花街・丸山町を目の前にした電車通りはしっとりとした柳の並木に覆われながら、道路にまで迫る市街地の中に活気とうるおいと懐かしさとを感じる雰囲気をふんだんに含んでいました。ゆっくりと散策を楽しみたいエリアの1つですね。稲佐山と並ぶ長崎の展望スポット・風頭山の西斜面は寺町となっておりまして、これから向かおうとしている崇福寺をはじめとした個性豊かな寺院が並びます。電車通りから寺町へ向かう「寺町通り」を歩みます。山肌に向かって急勾配となる夏の大通りは、緑鮮やかな街路樹(長崎市の木である「ナンキンハゼ」ではないかと思うのですが、確実な情報を得ることができていません)の続く現代の市街地は、電車通り周辺そのままの容貌を見せています。寺町というイメージとはかけ離れた都市景観が続くなか通りの右手に現れたのは、やはりある意味においては寺町の型を打ち破るような、堂々たる中国風の楼門でした。

 崇福寺三門は、唐寺である当寺の雰囲気を濃厚に示す様式を見せるものの、傍らの説明表示板によれば日本人棟梁の手によるものなのだそうで、1849(嘉永2)年に再建されたものであるとのことです。その独特の風貌から地域では「竜宮門」の名で親しまれる三門をくぐりますと、本堂へさらに石段が続いていきます。背後に展開していく穏やかな町並みを俯瞰しながら、国宝の第一峰門へ。中国・寧波で切組みされ、1695(元禄8)年に舶来して長崎の地で再建されたものであるという来歴を持ちます。門の屋根の下、軒に組まれるおびただしい組木の細やかさと巧みさに目を奪われます。門は中国では縁起がよいとされる事物によって装飾が施されています。軒下に描かれた瑞雲などの吉祥文様をはじめ、門扉に描かれたコウモリと牡丹の花などがそれにあたるものであるのだそうです。この年代におけるこの種の建造物は本家・中国華南地方でも稀であり、その意味でもたいへんに貴重な建築です。国宝の門をくぐった先には、壮麗な唐寺の建物がずらりと並びます。第一峰門と並び国宝に指定される大雄宝殿は、大壇越(有名な財物施与者)何高材の寄進により、やはり中国で切組みされ1646(生保3)年に建立されたものです。当初は単層屋根であったものを、延宝天和の頃に外観の重層を付加し現在に至っています。再びその流麗な結構に魅せられながらくぐった第一峰門の向こうには、緑に囲まれたほんとうに穏やかな町並みが広がっていました。その穏やかさは再び寺町通りに戻って西した後、寺町方面へ続く路地へ入りますと一段と増してまいりました。現在の住居表示板の下に旧町名が記された表示板が掲げられている通りには、住所地名としては失われたかつての「磨屋町」の一帯が絵地図で紹介されたパネルがあるなど、昔ながらのコミュニティをも生かしつつ寺町の風情を十分に盛り上げているように感じられました。皇居・二重橋のモデルとなったという有名な眼鏡橋をはじめとした中島川にかかる石橋群の温かみのある風景を楽しみながら、北へ進みます。橋の一つひとつが寺町に鎮座する寺院への参道であったという橋たちは、水害による流失・再建を経験したものもあるなど、長崎の歴史をともに歩んできた財産なのですね。


諏訪神社

諏訪神社
(長崎市上西山町、2005.8.9撮影)
諏訪神社より俯瞰

諏訪神社より東方向の市街地を望む
(長崎市上西山町、2005.8.9撮影)

 長崎フィールドワークの最後に訪れたのが、長崎を代表する祭り「長崎くんち」の舞台として知られ、“お諏訪さん”として地域住民に親しまれている諏訪神社でした。1555年〜57年(弘治年代)の頃に、信州・諏訪社から御霊分けされ、当初現在の寺町にある長照寺付近にあったことは、現在「諏訪町」となっている地域が長照寺の西側一帯となっていることに承継されています。その後、神社は現在の松森神社の位置に1624(嘉永元)年に建立され、1648(慶安元)年に今の場所に移築されるという過程を経ています。朝から町を歩き続け、疲労がピークに達していた時に目の前に出現したのは、諏訪神社へと続く長い、長い、本当に長い、石段でありました・・・。諏訪神社前電停のある広い馬町交差点の西から始まる石段は271段。石段は途中2本の市道と交わり、普通に自動車などが通過していくところは、やはり「坂の町」らしいところかなとも思えます。参道に設けられたたくさんの鳥居の下をくぐり、やっとのことで三門に辿り着いたときには、もうくたくたになっていました。本殿にてお参りを済ませ、先ほどまで歩いてきた参道を振り返り、改めて「坂の町」のかたちを実感します。そして、坂の上から眺めた町並みに、この日見てきたほかの多くの美しい眺望が重なります。

 緑の中に寄り添うように続くなめらかな風貌の住宅地と、
それと緩やかに連続していく市街地の密度の高い建物群との自然な連続性、そしてこの町を育んだ港としずかな海のやさしさにあふれた抱擁とが、絶妙なコラボレーションを織り成す町、長崎。それらに平和を希求する願いが重なって、この町が編んできた歴史の尊さが胸に伝わってきます。60年目の原爆の日に、この町をほんの一部分でしかないかもしれませんが“さるく”(長崎のことばで「歩く」の意)ことができたこの経験を、糧にしなければならない。本当にいろいろなことを学ぶことができたのではないかと思っています。諏訪神社前電停から夕刻の時間帯、帰路に着く人々で満員の路面電車に乗り込んで、ホテルへと向かいました。夕闇に沈みゆく長崎の町はかわらぬ喧騒の中にありました。町は、この町を創り上げてきた人々のたゆまぬ歩みの蓄積をエネルギーとして、今日も走り続けています!!




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