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長崎・五島、南蛮をまとう風

 2020年8月、長崎・上五島を訪れました。近海を通過した台風に翻弄され、一部行程の変更を余儀なくされましたが、潜伏キリシタンの残した信仰を今に伝える風景に、南方から伝来した異国の風を感じました。

稲佐山から望む長崎市街地

稲佐山から望む長崎市街地
(長崎市稲佐町、2020.8.28撮影)
頭ヶ島天主堂

頭ヶ島天主堂
(新上五島町友住郷、2020.8.27撮影)
訪問者カウンタ
ページ設置:2023年10月30日

豪雨と秋陰の長崎を歩く 〜近世から現代への変遷を残す風景〜

 2020年8月27日、前日の熊本北部の訪問を終えて長崎市内に投宿していた私は、その日の朝、やや強い雨の降る長崎港ターミナルへと向かいました。この日は上五島のホテルを予約しており、予定では福江島へ渡った後、下五島から上五島へ、教会群を巡りながら進むつもりでした。海上は朝鮮半島へ抜けた台風の影響で時化が残っていて、午前中に福江島へ向かうことはできなくなってしまっていました。そのため、午後もし高速船の運航が再開されれば、上五島に直接向かうこととし、それが無理なら長崎市内での連泊を想定し動くこととしました。そのため、この日はほぼ一日長崎市内を散策することとなりました。

JR長崎駅

JR長崎駅、新幹線乗り入れに伴う工事中
(長崎市尾上町、2020.8.27撮影)
長崎駅前停留場

JR長崎駅前・長崎駅前停留場
(長崎市大黒町、2020.8.27撮影)
長崎駅前停留場

長崎駅前停留場
(長崎市大黒町、2020.8.27撮影)
石橋を覆う道路

石橋停留場近く、石橋を覆う道路
(長崎市大浦町、2020.8.27撮影)

 港のターミナルに荷物を預け、市内に出ますと、雨が一段と激しくなっており、徒歩でJR長崎駅へ向かう時分が最も雨脚が強かったことを記憶しています。駅前は2022年9月に開業した西九州新幹線の工事に伴い再開発が行われていまして、路面電車の一日乗車券を購入するために駅構内へ向かうのも、仮設の通路をけっこうな距離を歩く必要があって、当時は難儀をしたのを覚えています。狭い低地とその背後の傾斜地に市街地が広がる長崎にあって、新幹線は長崎駅に着く直前までトンネルの中を走る形となるようです。トンネルから出ていきなり市街地の只中で、瞬時に駅に到達する風景は、どのようなものなのか想像しながら、中空に建設される新幹線の高架を仰ぎ見ました。

 長崎駅前電停から電車に乗り、新地中華街電停で電車を乗り換えて石橋電停へと向かいました。大浦川に沿って到達した石橋電停の先は、大浦川は暗渠となっていて、電停の名前の由来となった大浦橋も現在では道路の下に隠されてしまっています。石橋が架かる川もろとも道路として利用せざるを得ないほどの狭隘な谷間に、ぎりぎりまで入り込む路面電車を降りて、日本初の公道の斜行エレベーターである「グラバースカイロード」を利用し、住宅の張り付く斜面を一気に登りました。東山手地区を眺望できる大浦展望公園へ、濡れた石畳の街路を進みますと、幕末に建設された貴重な洋風建築である「南山手レストハウス」の前に至りました。石柱に加え、木製の柱をテラスに利用する構造は市内でも類例が無いという独特なファサードは、異国との窓口としての役割を一貫して担ってきたこの町の語り部のように感じられました。

グラバースカイロードを望む

グラバースカイロードを望む
(長崎市相生町、2020.8.27撮影)
南山手レストハウス

南山手レストハウス
(長崎市南山手町、2020.8.27撮影)
大浦展望公園から東山手の町並みを望む

大浦展望公園から東山手の町並みを望む
(長崎市相生町、2020.8.27撮影)
長崎港のドック群を望む

グラバー園から長崎港のドック群を望む
(長崎市南山手町、2020.8.27撮影)

 直行エレベータでさらに坂を上がり、グラバー園へ。初秋の雨は依然として静かな浦に面して広がるこの町を潤し続けていました。雨に煙る町並みは、園内の洋風建築物群や、眼下のドックのクレーンの列、そして山手の緑の先に広がる現代の都市のシルエットとつながり、人々の多様な交流よって育まれた長崎の歴史を穏やかに表現していました。旧グラバー住宅は、訪問時には耐震補強などの工事が施工中で、その工事の様子を見学できるようになっていまして、そうした歴史的資産を次代へとつなぐ現場にも立ち会うことができました。

 園内の石畳を下りながら、南山手の市街地の中へと進みます。観光化されて多くの土産物屋などが建ち並ぶ中で、国宝の大浦天主堂はそういった磊落な雰囲気を一気に引き締めてくれているように感じられました。2018年には、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つともなっています。教会の正面には「天主堂」と漢字で書かれた扁額は、建立当初は「フランス寺」とも呼ばれたという経緯を思い起こさせます。天主堂は、やはり世界遺産の構成資産の一つとなっている、長崎駅近くの二十六聖人殉教地(西坂公園)を向いて建立されているとのことです。

旧グラバー住宅

旧グラバー住宅・工事施工中の様子
(長崎市南山手町、2020.8.27撮影)
グラバー園から市街地方面を望む

グラバー園から市街地方面を望む
(長崎市南山手町、2020.8.27撮影)
大浦天主堂

大浦天主堂
(長崎市南山手町、2020.8.27撮影)
オランダ坂

オランダ坂
(長崎市東山手町、2020.8.27撮影)

 大浦天主堂下の交差点を過ぎてオランダ通りを北へ、「オランダ通り」と呼ばれる街路をそぞろ歩きながら、観光地としても知られる知られるオランダ坂下へ。雨に濡れる石畳の情趣も美しいオランダ坂は、周辺に残る旧居留地の佇まいも相まって、長崎の近世から現代への過程を鮮やかに表現しているように感じられました。オランダ坂下のオランダ通りをさらに北へ、トンネルを経て長崎道へと続く高速道路が顔を出した高架の下をくぐって、新地中華街へ。開港場として多くの外国人が訪れ生活の場を形成してきた長崎の市街地は、それらの文化的な足跡を濃厚に刻みながら、中核都市としての居住まいを整えていることが改めて理解されます。銅座橋を渡り、市内有数の歓楽街が形成される、銅座町・思案橋界隈へ。雨中の町並みは道路に迫る中高層の建築物の下を傘を差す人が行き過ぎ、自動車がわらわらと軌道敷を通過しつつ、僅かな空隙を路面電車が入線してくると言った風情でした。その路面電車の思案橋電停から再びそれを利用して、市街地を一気に北へ、路面電車1号系統で直行する平和公園電停を降り、平和公園と目指します。

 平和公園は、原爆の爆心地となった浦上地区に作られています。実際の爆心地は公園の南にある爆心地公園の位置にありますが、こちらは祈りの場として位置付けられているようで、原爆落下中心地碑や旧浦上天主堂遺壁などが安置されています。丘の上にある平和公園へは、常設されたエスカレータで向かうことができます。雨はこの頃までには止んでいまして、平和の泉から平和祈念像へと続く動線の道筋の路面は乾き始めていました。平和公園を象徴する平和祈念像は、静かに、そして力強く構えていまして、訪れる人々にあの日の記憶と未来の崇高さとを語りかけてくれているように感じられました。平和記念公園の丘の上からも遠望できる浦上天主堂へ進みます。

思案橋近くの繁華街景観

思案橋近くの繁華街景観
(長崎市浜町、2020.8.27撮影)
平和公園・平和の泉

平和公園・平和の泉
(長崎市松山町、2020.8.27撮影)
平和祈念像

平和祈念像
(長崎市松山町、2020.8.27撮影)
平和公園から浦上天主堂を望む

平和公園から浦上天主堂を望む
(長崎市松山町、2020.8.27撮影)

 平和公園のある丘から階段を降り、小さな川(下の川と呼ばれるようです)沿いを緩やかに上って、「東洋一の教会」とも称された、浦上天主堂へ。浦上は長崎の町のある「浦」から浦上川を遡った「上」にあるといった場所であるのでしょう。長崎が町場として成長しても、そこはしばらくは農村的な色彩の強い場所であったように思います。近代化が進み、市街化が顕著となり長崎の市街地として一体となった矢先、ここに原爆が投下されました。カトリック信者も多く、多くの信者を集めて存立した旧天主堂も灰燼に帰しました。現在の教会は、1959(昭和34)年に完成しています。周囲には倒壊した旧天主堂の遺構もそのままに残されていまして、在りし日の惨禍を伝えています。

 天主堂下から平和町の町並みを歩き、爆心地公園へ。公園の東側には、下の川が流れ、護岸には被爆75周年を祈念した子どもたちによる平和壁画展の作品が掲げられていました。近傍には被爆当時の地層が見学できるようになっている場所があります。わずか75年前の生活の場であった場所に産卵した瓦礫などが、復興の過程で埋められ、地層と表現されるほどの地下に存在することに戦慄を覚えました。再訪した長崎原爆資料館では、長崎における平和を希求する祈りと、長崎のこれまでの弛みない歩みとを改めて確認しました。訪れた8月下旬、昭和20年のあの日は、終戦の混乱も重なって、復興の道筋にはまだ程遠く、壊滅した市街地に多くの人々が希望を見い出せない中であったかもしれません。台風の遠い影響で雨が断続的に降り続いた町並みを歩きながら、現代に至る過程で多くの尽力と、悲しみと、そして再生とが内包されてきたのかに思いを馳せました。

浦上天主堂

浦上天主堂
(長崎市本尾町、2020.8.27撮影)
下の川、平和壁画展の様子

下の川、平和壁画展の様子
(長崎市平和町、2020.8.27撮影)
爆心地公園・旧浦上天主堂遺壁

爆心地公園・旧浦上天主堂遺壁
(長崎市平和町、2020.8.27撮影)
崇福寺・大雄宝殿

崇福寺・大雄宝殿
(長崎市鍛冶屋町、2020.8.27撮影)

 この日の夕刻、長崎港を出港する上五島・有川港へ向かう高速船が運航を再開することが分かり、その出航時刻まで、長崎の町を散策することとしました。路面電車で再び1号系統で思案橋方面へ戻り、終点の崇福寺電停へ。電停を降りて繁華街の中を進んで間もなく、崇福寺の門前へと至りました。崇福寺は長崎在住の福州出身者が中心となり建立した唐寺です。中国の建築様式でつくられた第一峰門と大雄宝殿は国宝の指定を受けています。崇福寺のある一帯を含め、風頭山の東麓は寺町となっていまして、多くの寺院が山麓に点在して、その門前に穏やかな町場を形成しています。

 思案橋に近い辺りは繁華な印象の市街地も、北へ入るにつれてだんだんと丸みを帯びた表情となり、碁盤目状に整えられた町場の骨格と、それぞれの寺へと続く門前の参詣道とのつながりが見えてきます。「ししとき川」と呼ばれる流れは、延焼対策で市街に張り巡らされた水路の名残であるようで、その「溝よりは大きく川よりは小さい」流れを長崎では「えご」と呼んだそうです。板石が張られた側溝のような流れは、近代化後は下水道の用途に改変された場所も多かったとのことです。ししとき川はそのえごが残された貴重な場所で、流れに沿った通りは「えごばた」と呼ばれたとのことでした。中島川沿いの石橋群は、有名な眼鏡橋を含め、石積の護岸のある伝統的な意匠が残されたものとして、長崎の町並みに豊かなアクセントを与えています。

ししとき川

ししとき川の景観
(長崎市古川町、2020.8.27撮影)
眼鏡橋

眼鏡橋
(長崎市諏訪町、2020.8.27撮影)
出島の景観

出島の景観
(長崎市江戸町、2020.8.27撮影)
長崎新地中華街

長崎新地中華街
(長崎市新地町、2020.8.27撮影)

 中島川沿いを下りますと、鎖国時代に日本で唯一外国に開かれた場所であった出島へと到達します。出島は、明治に入って以降、中島川の河川改変工事や度重なる埋め立てによって市街地と地続きとなり、そのエリアは周辺の市街地へと埋没していました。その歴史的意義から復元工事が進められることとなり、かつて出島があった場所には商館などの建物が復元されて、中島川には出島へと渡る出島表門橋が架橋されて、扇形の人工島へ渡る雰囲気を実感できるようになっています。出島に隣接する新地中華街を経て、長崎で貿易に携わった唐人が居留した唐人屋敷跡へ。市街地の中に取り込まれたかつての居留地には、面影を残す中国建築も残されています。長崎が異国との関わりの中で存立してきた事跡を存分に示す縁を、中華街の後背地に認めました。

 長崎港フェリーターミナルに戻り、午後4時40分発の有川港行き高速船に乗船しました。海はまだ波がある状況でしたが、空には日が射し始めていて、雨は上がっていました。午後6時30分前、上五島の有川港に到着したときには、わずかに夕日の茜色が雲間に見えて、北側に開いた有川湾は心持ち穏やかな印象でした。



上五島フィールドワーク 〜歴史を刻む教会群をめぐる〜

 有川港に着いてからは、ホテルの送迎で中通島北部のホテルに向かいました。有川港のある中通島は、五島列島の中でも2番目に大きい島で、上五島と呼ばれる五島列島の東側のエリアにおける中心となる島です。宿泊するホテルは、その中通島の北、半島のように細長く伸びる津和崎鼻へ向かう陸地の中ほどにあります。到着後はすでに夕刻だったので、そのままゆっくりと過ごし、翌朝を迎えました。ホテルから見える有川湾はぼおっとけぶっていて、幻想的な朝靄に包まれていました。近くの曽根教会の屋根の十字架も背後の山々の緑に埋もれるように見えていました。

ホテルから見た有川湾

ホテルから見た有川湾
(新上五島町小串郷、2020.8.27撮影)
ホテルから曽根教会を望む

ホテルから曽根教会を望む
(新上五島町小串郷、2020.8.27撮影)
丸尾教会

丸尾教会
(新上五島丸尾郷、2020.8.27撮影)
丸尾教会から見た集落景観

丸尾教会から見た集落景観
(新上五島町丸尾郷、2020.8.27撮影)

 中通島と隣接する若松島を中心とした上五島エリアには、29のカトリック教会が存在しています。この限られた範囲にこれだけの教会があるということに、キリスト教を信奉してきた地域の濃厚な歴史が刻まれています。そして、その風景を目の前にするとき、キリスト教迫害の背景とともに、多くの人々の心を打つのだと思います。台風が運んだ湿った空気の影響が残り大雨となった朝の時間帯にホテルから有川の町にタクシー移動し、レンタカーに乗り換えて中通島の教会群を巡ります。まずは島の北端に当たる津和崎鼻へ向かいました。

 丸尾教会は、有川湾に面する集落を見下ろす高台に、美しい白亜の建物が印象的です。上五島のキリシタンは、九州本土、現在の長崎県西彼杵半島の東シナ海沿岸、外海地方から迫害を恐れて移住してきた人々を主な祖としているといいます。丸尾教会の信徒もその外海からやってきた人々がルーツで、1975(昭和50)年1月に丸尾小教区として独立し現在に至ります。漁場を臨む丘の上の白い教会は、地域を穏やかに見守るようにしてあって、山肌に張り付くような家並みに溶け込んでいました。細く北へ延びる半島状の陸地をさらに北に進み、長崎県内では最も古い現存教会建築である江袋教会へ。2007年2月に惜しくも火災で焼損しましたが、柱や梁の残存部を活かして、2010年3月復元されました。火の見櫓の上に十字架がある風景に、伝統的な日本の集落景観と信仰の歩みが重なります。



江袋教会
(新上五島町曽根郷、2020.8.27撮影)
江袋教会から見た沿岸風景

江袋教会から見た沿岸風景
(新上五島町曽根郷、2020.8.27撮影)
赤波江教会

赤波江教会
(新上五島町立串郷、2020.8.27撮影)
米山教会

米山教会
(新上五島町津和崎郷、2020.8.27撮影)

 赤波江(あかばえ)教会、そして最北端の米山教会と訪ねながら、島の北の突端の津和崎鼻へ。雨や風がまだ残る中での訪問となったため、間近に見える野崎島も少し霧がかかっており、北の小値賀島方面への見通しもあまり利きませんでした。野崎島には、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつである、旧野首教会堂があります。現在島に住民として地域の信仰を示す史跡として集落跡が世界遺産の指定を受けています。そうした新旧の、キリスト教信仰の態様を示す事物が生き生きと残る上五島とその周辺の風景は、依然として時折激しさを増す風雨の中、とても鮮烈に広がっていました。

 津和崎鼻訪問後は南へ戻り、小瀬良教会や曽根教会など、地域に根ざす教会を訪ねながら進みました。島の北西に開く奈摩(なま)湾を見下ろすように建立された赤煉瓦造りの教会が一際目に映えます。国指定重要文化財の青砂ヶ浦天主堂は、その重厚な結構で、人々を温かく迎え入れてくれているようでした。五島出身で、長崎県下に数多くの教会建築を残した鉄川与助の手による教会堂は、1910(明治43)年竣功。日本人の手による本格的な初期の教会建築として貴重なものであることから、国重文の指定を受けています。静かな湾に向かう教会堂は、多くの信徒の手で運び上げられた煉瓦によって建設されたと言います。そうした背景を知って雨に濡れる教会と眼下の集落を眺めますと、いっそう感慨深くその風景が目に映ります。

津和崎鼻から小値賀島を望む

津和崎鼻から小値賀島を望む
(新上五島町津和崎郷、2020.8.27撮影)


津和崎鼻から野崎島を望む
(新上五島町津和崎郷、2020.8.27撮影)


小瀬良教会
(新上五島町立串郷、2020.8.27撮影)
青砂ヶ浦天主堂

青砂ヶ浦天主堂
(新上五島町奈摩郷、2020.8.27撮影)

 青砂ヶ浦天主堂を訪ねた次は、一路島の南側を辿ることにしました。中通島は、これまで辿ってきた北の細長い陸地と、有川の町がある東西に長い部分、そしてそこから南へ続く奈良尾方面の陸地を合わせて見ると、どこか十字架を彷彿とさせる形をしていることに気づきます。その自然の偶然の機微も感じながら、国道384号の蛤交差点から町道を南へ、南から細く入り込む入り江の奥に位置する鯛ノ浦教会を訪れました。現在の教会の裏手にある旧教会は、上五島の信仰の中心として1881(明治14)年に最初の教会が建てられ、1903(明治36)年に建て替えられたものです。教会にはルルドが設けられ、聖母マリア像が祀られ、多くの信仰を集めています。

 さらに島を南へ進みます。いわゆるリアス海岸が卓越する中通島では、島を縦貫する道路は狭い低地に発達した集落を避けてやや高台を通過することが多く、切り立った山肌を縫うように取り付けられています。海辺の集落へは、その基幹道路から枝葉のように分岐した細い道路を進んでいくこととなります。そのようにして到達した浜串漁港は、捕鯨の歴史があり、そこに建つ浜串教会はその捕鯨の利益で作られたと言われているとのことです。漁港の入口には、希望の聖母像が建立されていまして、漁業を生業としてきた地域を優しく見つめていました。

奈摩湾の風景

奈摩湾の風景
(新上五島町奈摩郷付近、2020.8.27撮影)
旧鯛ノ浦教会

旧鯛ノ浦教会
(新上五島町鯛ノ浦郷、2020.8.27撮影)
鯛ノ浦教会のルルド

鯛ノ浦教会のルルド
(新上五島町鯛ノ浦郷、2020.8.27撮影)
浜串教会、希望の聖母像

浜串教会・希望の聖母像
(新上五島町岩瀬浦郷、2020.8.27撮影)

 奈良尾の町並みを一瞥しながら中通島の西側を戻り、若松島へ渡ってその風景を確認した後は、上五島での最後の訪問地となる頭ヶ島天主堂へと急ぎました。頭ヶ島は、中通島の北東に隣接する島で、1981(昭和56)年に、島に開港した上五島空港に合わせて架橋され、現在では車で向かうことができるようになっています。現在は上五島空港から定期便は就航していませんが、そのターミナルビル前から、頭ヶ島集落へ向かうバスが出ています。明治維新前後に一度迫害から逃れていた島民が、それが終わって再び島に戻り、頭ヶ島天主堂を建立しました。1919(大正8)年完成の天主堂は全国でも珍しい石造の建物です。先にご紹介した鉄川与助が設計し、住民が近隣の砂岩を切り出して建設したとされます。その歴史的な経緯が評価され、この天主堂を含む頭ヶ島の集落は世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」の構成資産の一つとなっています。

 
 石造りの教会堂の壁には、建設の際にわかりやすいように彫ったと思われる漢数字も認められます。この天主堂を手作りで汗水垂らして作り上げた住民が確かに存在していたという生きた証拠です。内部は椿の意匠をあしらったアーチ状の丸みを帯びた柱が印象的なものとなっていまして、ここで静かに祈りを捧げてきた信者の息づかいが聞こえてきそうな佇まいでした。付近には十字架を掲げたキリシタン墓地もあって、この小さな島に鮮烈に輝きを放った、キリスト教信仰の歴史が穏やかに、そしてはっきりと島の沿岸風景に刻まれていました。
なお、頭ヶ島の見学には事前予約が必要となっています。訪れる際にはぜひ注意をお願いしたいと思います。

浜串教会

浜串教会
(新上五島町岩瀬浦郷、2020.8.27撮影)
高井旅教会

高井旅教会
(新上五島町奈良尾郷、2020.8.27撮影)
若松島から中通島を望む

若松島から中通島を望む
(新上五島町若松郷、2020.8.27撮影)
キリシタン墓地越しに頭ヶ島天主堂を望む

キリシタン墓地越しに頭ヶ島天主堂を望む
(新上五島町友住郷、2020.8.27撮影)

 頭ヶ島天主堂の訪問を終えて、有川の町に戻ってきた頃には、雨もようやく落ち着いてきていまして、午後2時20分発の長崎港行きの高速船の出発を待つのみとなりました。上五島最大の市街地を形成する有川には、地域を統括する行政機関や商業施設がまとまっていまして、地域を代表する商業地としての顔を見せていました。前日乗った高速船で再び長崎へ向かい、長崎港へ到着する頃には、天気はすっかり回復していまして、前日は驟雨の中であった長崎の町並みはこの上のない青空の下、極上の日差しをいっぱいに受けてきらめていました。

 台風の間接的な影響を受け、本来は向かう予定であった下五島の久賀島、奈留島などを訪れることはできず、上五島を半日あまり巡るだけとなってしまった今回の五島再訪でした。しかしながら、平地の少ない山がちな、四方を海に囲まれた自然豊かな島に、これほどまでに豊かなキリスト教信仰の歴史が編まれてきた風景を目の前にしたときは、ここが西に開ける文化の窓口として存立してきた歴史を抜きに見ることができないなと改めて実感したのでした。強弱を繰り返す雨粒をしみこませた初秋の海風は、まさに濃厚に南蛮をまとった光風であったのでした。





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