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#8 竹内街道と竜田川の夕暮れ 〜古代の官道と紅葉の名所を訪ねる〜 2013年11月30日、宇陀松山から談山神社へと進んだ私は、そこからさらに西進し、飛鳥から大和高田を通過して、国道166号が二上山の山懐へと向かう葛城市の竹内地区へと到達しました。竹内街道とも呼ばれるこの道筋は、613 (推古天皇21)年に、難波と飛鳥京とを連絡するために完成した、わが国最初の官道と言われます。外国への玄関口となった難波津と大和とを結ぶこのルートを通り、大陸から多くの文化がもたらされ、飛鳥文化成長の土台となったことで知られます。その後も、大坂と奈良とを結ぶ重要な交通路としての地位は失われることなく現在に至ります。葛城市當麻庁舎にて車を下りて、国道166号の現道の一筋南を西へ続く、竹内街道の旧道を辿ります。
普通車がゆっくり走って行き違いができる程度の道幅の街道筋は、穏やかな水田や畑の点在する、のびやかな住宅地域の間を進んでいきます。現代的な住宅が多くを占める中にあって、町屋造りの昔ながらの建物も存在しており、近世から近代にかけても要路として繁栄した土地柄を示しているように感じられました。竹内峠に近い竹内集落へと至りますと、格子壁や虫籠窓のある、平入の町屋が多く立ち並ぶようになりまして、より歴史的な雰囲気が増していきます。道路の端には水路があって、旅篭や茶屋が立地したという往時を偲ばせました。 集落の中ほどには、「芭蕉旧跡 綿弓塚」との説明表示のある句碑が残されています。この句碑は、芭蕉の紀行文「野ざらし紀行」において詠まれた句「綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥」に因み、紀行における好句を記念して芭蕉の死後150年を経た1809(文化6)年に建てられたものであるとのことです。この紀行に同行した芭蕉の門人千里はこの竹内が郷里で、芭蕉は千里の案内でこの地を訪れて、数日間滞在しました。街道筋は山に近づくにつれて道幅を細め、それに付随するように、街並みも町屋や蔵の密度が高まってまいりまして、その奥ゆかしさがいっそう美しく目に映ります。
竹内集落の美観を訪ねた後は、国道166号を横切って北へ、當麻寺方面へと散策を進めました。當麻寺へと向かう道中は、竹内古墳群を中心に公園化した「史跡の丘」や、瓦堂池など、周囲の自然に溶け込みながらも古来より人が生活の舞台としてきた痕跡が残された、ウォーキングをするには気持ちのよい風景が展開していました。ゆるやかな峠を越えて、また歴史を感じさせる建物が穏やかに佇む集落へと入りますと、そこは當麻寺門前の街並みの中でした。この年の夏に訪れていた當麻寺を再訪します。 初冬の夕暮れ、錦に染まる二上山のたおやかな山容を背景に、當麻寺の堂宇はただ静かに、沈黙の季節へと向かう時間の流れに身をゆだねているように感じられました。カエデが鮮やかに色づき、冬桜やツワブキの花がわずかに輝きを添えて、雲ひとつない空の下、東西の三重塔を含む伽藍を慎ましく彩っていました。その後は夏にも歩いた門前の参道を東へ歩き、当麻寺駅前から南へ折れて、車を置いていた當麻庁舎へと戻りました。
いよいよ落日が迫る中、国道168号を北へ向かい、交通の要衝として一定の中心性を持つ王寺駅前の渋滞に巻き込まれながらも国道25号へと針路を取って、紅葉の名所として知られる竜田川緑地へと車を走らせました。こちらも、この年に訪れていた斑鳩の里に近接していまして、その川沿いを歩いた場所です。古来から紅葉が美しく、多くの歌に詠まれてきた歌枕である竜田川は、植えられたカエデがまさに見ごろを迎えていまして、夏に見た緑濃いそれとはまた違った、極上の鮮やかさに満ちていました。実は、古来多くの詩に登場する竜田川は、現在この名で呼ばれる川ではなく、本流である大和川を指しているとする見解が主流であるようです。しかしながら、多くの歌人にその美しさを称賛された「竜田川」の紅葉の空気は、駐車した場所の利用時間の関係で、短い滞在となりましたが、十分に感じることができました。 奈良盆地周辺の山中や集落、自然のたおやかな風景に触れる行程の中で、四季折々に多様な姿を見せる日本の自然観と、豊かな文化とに、改めて胸を躍らされる1日でした。 |
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