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#9 奈良・佐紀路を歩く 〜古代の古墳群と現代の町並みの調和〜 2016年11月23日、前日までの兵庫県内陸のフィールドワークからは位置を変えて、久しぶりに奈良を訪れていました。投宿していた新大阪駅から近鉄奈良駅へ。興福寺周辺を散策した後、近鉄西大寺駅前へ移動しました。2013年6月に訪問した佐保路の西に続く佐紀町(さきちょう)周辺を歩きます。近鉄の京都線と奈良線、そして橿原線が結節する近鉄西大寺駅一帯の商業地区を過ぎると程なくして秋篠川に到達します。秋篠川は平城宮跡の西側を直線に流下していきます。平城京造営時に直線的に付け替えられた結果であることが傍らの看板に説明されていました。現代都市の中に息づく古代の都市計画の痕跡を一瞥しながら、東の平城宮跡歴史公園の北縁へと進んでいきます。二条町交差点のど真ん中には、2つの小さな祠があります。歓喜寺地蔵尊(東側)と弘法井戸館(西側)です。伝統と現代とが絶妙に同居する風景は、歴史のある町の時間の蓄積を象徴しています。
やがて道路は平城宮跡歴史公園の北の端の広い空間へと導かれます。言うまでも無く、平城宮は710(和銅3)年に遷都された平城京の大内裏(宮城)です。その跡は平城宮歴史公園として整備され、建物の一部が復元されています。奈良市の中心市街地の西に広大な敷地を擁する緑地と、雅やかな古代の都を建造物が建つ風景は、この空間を通過する近鉄線でやってくる人々にとって、最初に古都・奈良へ来たと実感させるものであるかもしれません。復元された大極殿の圧倒的なスケールに感じ入りながら、公園北側の佐紀町の町並みへと歩を進めました。 公園に接する佐紀池の周辺に同じ名前の「佐紀神社」が二座鎮座しています。東側の神社が歴史は古く、674(白鳳3)年と伝わり、西の神社は江戸期に分祀されたものであるとされるようです。同じく分祀されたという釣殿神社を確認しながら、池の西側の森の中の小道を歩きます。周辺は田畑も点在する穏やかな住宅地となっていまして、後述するように古墳などの文化財が豊富に存在することが都市地域にありながらのびやかな集落景観が維持されていることにつながっていることが推察されました。
奈良には、JR奈良駅を起終点とし、東大寺周辺や平城京跡、西ノ京一帯を集会する「歴史の道」と呼ばれるハイキングコースが設定されています。今回の佐紀路訪問も、このルートを踏襲することによって行いました。道筋には要所に案内表示や石標が設置されていまして、奈良の多様な歴史的景観を辿ることができます。小さな丘陵の鞍部を越え、住宅地を進んでいきますと、瓢箪山古墳へと到達します。この古墳のほか、周辺には天皇、皇后陵と伝えられるものも含めた古墳が多く存在し、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群と総称されます。 丘陵上に住宅地と古墳群が並立する景観は、古墳時代より多くの有力者が存立していた地域の歴史を濃厚に感じさせます。日葉酢媛命(ひばすひめのみこと;垂仁天皇皇后)陵(佐紀陵山古墳)と成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)の間を進み、古い町並みの中を平城駅付近を経てさらに歩き、神功皇后陵(五社神(ごさし)古墳)へと歩きます。高台となっている古墳群からは、盆地に広がる市街地を俯瞰できる場所もあります。伝説の時代におけるビッグネームの墓陵とされる古墳群と、そこからの現代の町並みの俯瞰風景に、連綿と紡がれてきた我が国の道筋に思いを馳せました。
歴史の道は神功皇后陵から西へ、秋篠寺へと進んでいきます。板張りの土塀や土蔵などが奥ゆかしく残された集落の中を歩きますと、豊かに色づいたカエデが配された秋篠寺へと誘われました。秋篠寺の創始は奈良時代の末期、光仁天皇の勅願によるものとも伝えられます。照葉樹の緑が鮮やかな境内を進み、国宝の本堂へ。鎌倉時代に再建された本堂は、均整の取れた簡素な結構が印象的で、仏教文化が花開いた天平期の空気を含んだ寺院とはまた異なった、鎌倉期らしい質実な容貌をまとっているように感じられました。秋篠寺での時間の後はバスで近鉄西大寺駅へ戻り、佐紀路の訪問を終えました。古代から現代へ、幾星霜の時代を越えた風光は、我が国最古級の都市のひとつである奈良にあって、この佐紀路が持つ唯一無二の輝きであると思われました。 |
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