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新潟・天地豊穣
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#1 出雲崎 〜良寛のふるさと、妻入りの町並み〜 バスは、長岡で関越自動車道を降り、雄大な水田風景が展開する越後平野を西へ。縦に3つ並ぶ信号は雪国ならではのもの、道路には消雪パイプが取り付けられている、水田の間には収穫した稲を立てかけておく稲架 (はさ)があり、そして何より夏空の下、どこまでもたおやかに、爽快に、穂波が鮮やかな緑色の絨毯をつくっていたのでした。バスは、やがてゆるやかな丘陵に差し掛かり、ほどなくして小さな暗いトンネルに入る。そこをぬけると、目の前には日本海の水平線が目に鮮烈に飛び込んできたのです。眼下には、切り立つような丘陵の斜面と海岸線との間のわずかな平坦地に展開する黒い屋根の続く町がありました。バスは一気に急坂を下って、町並みの中へと吸い込まれていきます。この町の名は出雲崎。私の住む群馬県南東部のいわゆる「東毛地域」2市7町の小学生であれば誰しもが訪れる、臨海学校のある町です。上記は、その臨海学校を訪れた時のかすかな記憶をもとに記してみたものです。その後も、何度か新潟県を訪れていますが、私にとっての新潟は、魚沼から長岡、三島郡域へと至る地域というイメージが強いのでした。 出雲崎は、戦国期、上杉氏の時代から陣屋が置かれていたようで、1616(元和2)年には徳川幕府の天領(直轄地)となり、代官所が置かれることとなったようです。出雲崎は佐渡からの金の陸揚地であるとともに、北前船の寄港地としても、また北国街道の宿場町としてもたいへん賑わいのある町でありました。そのため、江戸期は越後では最も人口密度の高い市街地が形成されることとなり、限られた空間に多くの人が住めるように、間口(家の幅)が狭く、奥行きの長い「妻入り」の形式がとられるようになったと考えられているようです。また、当時は間口の大きさによって税金が定められていたため、二間から三間の間口の住居が多く建ち並ぶ景観となっています。現在では町並みの裏手、海岸との間に立派なバイパス道路が整備されたため、市街地に流入する自動車は少なく、ゆったりと妻入りの町並みを楽しみながら散策することができます。
出雲崎の歴史や文化、北前船や北国街道を介した交易の態様などを豊富な史料や実演によって学ぶことができる、道の駅「越後出雲崎天領の里」付近には、出雲崎を彩る多様な歴史を物語る施設が点在しています。石油掘削に機械方式を日本で最初に採用し、大成功をした「第一号井跡」を中心とした石油記念公園と石油記念館、町並みに入り、「荒海や佐渡に横たふ天の川」の名句を出雲崎に残した芭蕉の足跡に触れることのできる「芭蕉園」などがそれです。中でも、出雲崎にとって忘れてはならない人物といえば、良寛さまでしょうか。市街地には良寛生誕地である旧山本家跡に1922(大正11)年に建立された「良寛堂」をはじめ、良寛についての史料を集めた「良寛記念館」など、良寛ゆかりの多くの事物に触れることができます。 江戸期に隆盛を極めた出雲崎の町も、近代に入り北前船交易が衰退し、陸上交通全盛の時代を迎えるにつれてその喧騒も穏やかになり、現在では内陸の役場のある地域のほうが人口は多くなっていると聞きます。しかしながら、妻入りの町並みは江戸期における出雲崎の興隆を今に伝える重要な遺産として、大切に保存され、豊かな姿を今に伝えております。 |
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