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新潟・天地豊穣
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#9 東頚城丘陵、初夏の山里をめぐる 〜たおやかな「日本の原風景」〜 2013年5月12日、晴天に恵まれた新潟県十日町市東部から柏崎市の南部にかけての山間部を訪れました。具体的には十日町市松之山から同市松代(まつだい)、そして柏崎市高柳町に至る一帯です。これらの地域はいわゆる「平成の大合併」によって2005(平成17)年4月から5月にかけてこれらの市域の一部となったもので、それまではそれぞれ東頸城(ひがしくびき)郡の松之山町・松代町、そして刈羽郡高柳町という自治体でした。これらの地域を包摂する丘陵地帯は、その地域の大部分を占めた前者の郡名を採って、「東頚城丘陵」と一般的には呼ばれています。豪雪地帯として知られる山並みの初夏をめぐりました。
最初に訪ねた場所は、松之山地域にある「美人林(びじんばやし)」です。樹齢およそ90年ほどのブナ林がほぼ垂直に屹立するその森は、その立ち姿が美しいことからいつしか美人林と呼称されるようになりました。昭和初期に木炭にするために伐採された後にいっせいに芽吹いたブナの若芽が、この奇蹟の森を生み出す原動力となりました。根元に残雪がまだ残る場所も点在する中、萌黄色の若葉を輝かせる森を歩きますと、地球を舞台とする生命がまさに生きているということを実感させます。融雪を湛えた池のような水たまりもどこまでも透きとおったコバルトブルーを呈していて、ブナの森を鏡のようにその水面に映し出しています。前年の秋地面に落ちた枯葉がびっしりと覆うやわらかな足元を注意深く観察しますと、小さな葉を数枚携えただけの若木を見つけました。除雪した雪の山がまだ大きく残る傍らの水田では水が引かれ始めていて、田植えが近いことを知らせていました。 松之山地区を後にして、同じく十日町市の一部となっている松代地区へと移動します。丘陵を刻む谷筋のわずかな平坦地に集落は展開し、背後の山並みに棚田を築いて生活の糧とする、これがこの地域における一般的な集落構成の姿です。松代城跡公園は、かつて上杉謙信が春日山城(上越市)から関東へと続く街道筋を監視するための砦として利用していたとされる中世の城跡を利用して整備されました。同公園からは、ほくほく線まつだい駅をはじめ、松代地域の公共施設が集積する谷合の市街地が、背後の山並みから続く棚田の麓に広がるようすを穏やかに俯瞰することができました。斜面にはカタクリも花を咲かせていて、初夏の日差しをその紫の花弁にいっぱいに浴びていました。
松代市街地から北へ進んで峠を越え、柏崎市高柳町へ。鯖石川の流域に沿って県道を進んだ先に、茅葺屋根の家並が立ち並ぶその集落はありました。荻ノ島環状かやぶき集落と呼ばれるその場所では、鯖石川に向かって南東側に開けた低地の中央を水田として、それらを取り囲むように家屋が立ち並んでいます。茅葺屋根の家々も多く残っていまして、我が国における山間の原風景を彷彿とさせる、美しい農村景観がそこには現出していました。荻ノ島では、縄文時代の生活用具が発掘され古くから人々の生活の場となっていたようです。特徴的な環状の集落構造は、外敵から中央の水田を防衛するとともに、日照やエガワと呼ばれる水路を使って全戸に効率的に配水する目的もある、生活上の利便を志向したものであるようです。荻ノ島という地名は、大昔にもうぎの原といわれた野に沖のような島があり、「もうぎヶ原沖の島」といわれたものがいつしか「荻ノ島」の地名となったという伝承があると、現地に設置された表示板には解説されていました。水で潤いはじめた水田を歓迎するかのように色とりどりの花が咲き、山々はいよいよさみどり色に輝いて、長閑な里を輝かせていました。 東頚城丘陵は冬、時に3メートルから4メートルもの積雪に閉ざされます。5月中旬になっても残雪が見られる山里は、地滑り地帯でもあって、生活の舞台としては甚だ不便であるようにも感じられます。しかしながら、そうした環境の中でも脈々と人々が暮らしてきた背景には、豊富な水や肥沃な大地といった、生きていくうえで欠かせない資源に恵まれていたことがあると思われます。長い冬を越え、いっせいに躍動する山里の初夏のきらめきに、そうした地域のポテンシャルを見た、今回の東頚城丘陵の訪問でした。 |
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