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大阪ストーリーズ
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#10 大阪城から上町台地へ 〜都市・大阪の歴史をたどって〜 一昨年秋(2005年9月)の大阪フィールドワークにおいて、夕陽丘地区を中心とした坂のある風景の中を歩きました。上町台地と呼ばれる高まりに沿って展開する都市景観は、難波津と呼ばれた時代から大阪の町の礎が形成された場所であるという情感ともあいまって、穏やかさに溢れていました。上町台地が淀川の流れに臨む場所こそ、大阪を代表するシンボルのひとつである大阪城が立地する場所です。大阪城のある場所は平地の中にあって南北に突出した地形をつくる上町台地の北端に位置し、大阪湾と京を結ぶ動線である淀川に近い要害で、古来より重要な場所であったようです。中世戦国期には一大戦団を擁した石山本願寺の立地するところとなり、その寺内町も形成されて大きな影響力を持ちました。信長による攻勢で石山本願寺が退去した後に、信長の後を継ぐ秀吉が大坂城を造営、江戸期に徳川家による再建の後、現在の天守は1931(昭和6)年に「復興大阪城」として建設されたものです。現在存在する天守の多くが戦災等の被害を経て戦後に作られたものであるのに対し、大阪城は戦前に建てられたものが現在に至っても健在であるという意味では稀有な存在です。1997(平成9)年には国の登録有形文化財の指定を受けています。
天保山渡で此花区側に移動後、JR線を乗り継いで大阪城公園駅に降り立ち、大阪城公園へと足を踏み入れました。初冬の公園はうす曇の空の下ながらも、落葉樹が穏やかに色づいていまして、都市空間の中にあって開放的な、のびやかな空気に包まれていました。第二寝屋川の流れも間近にあって、水の都としての雰囲気を盛り上げます。序数が名前に冠されたこの川はそのネーミングからも類推されるとおり、1969(昭和44)年に掘削された新しい水路と楠根川の流路を利用して形成された水系であるようです。程なくして寝屋川に合流し、さらに大川(旧淀川)と一緒になって、中之島方面へとつながっていきます。川を挟んだ対岸には旧大阪砲兵工廠跡地を再開発した「大阪ビジネスパーク(略称OBP)」のビル群が颯爽と屹立しています。駅から続く広い公園内通路を行きますと正面に大阪城ホールがあります。大阪市内における最大規模のコンサートホールの1つですね。大阪城ホールの南を進み、東の外濠に出ますと、お壕の水面と石垣と色づいた森の上に大阪城が見えてきました。お壕に沿ったイチョウ並木も黄色に染まっています。青屋門をくぐり、梅林の西を通り桜門へ向かって、大阪城を間近に眺めました。私が初めて本格的に大阪の町を歩いた2004年5月、知人の案内で入った大阪城が思い出されます。初夏の鮮やかな晴天の下にあった大阪城は流麗で、城から俯瞰する市街地もたなびくようなたおやかさに溢れていました。
大手門から市街地へ出ます。門前には大阪歴史博物館が立地します。2001年11月、難波宮跡公園の一角のこの地に、NHK大阪放送会館とともに建設されたといいます。上町筋に向かって滑らかな曲線を描く外観が目を引きます。博物館前には茅葺の高床倉庫が復元されていました。法円坂遺跡で発見された5世紀の巨大高床倉庫群のうち1棟を模したものであるそうです。この法円坂一帯は、公園の名前が示しますとおり、古代における宮殿・難波宮の故地です。史書には記されているものの長らく所在地が不明で幻の宮城とされていた難波宮は、山根徳太郎博士の情熱的、そして継続的な発掘調査により後期難波宮の大極殿跡が発見され、その存在が証明されました。 大極殿跡周辺はその歴史的な雰囲気を生かした歴史公園として整備されています。公園と大阪城公園との間、中央大通りと並行する阪神高速は、当該区間のみ高架ではなく平面を通過していまして、公園から大阪城を望むことができるように配慮されています。公園は大阪市街地の只中にあります。周囲を見渡しますと、中高層の建築物によって埋め尽くされていまして、大阪城と難波宮跡公園の部分がぽっかりとあいた空間となっていることが実感されます。先にご紹介した歴史博物館とNHKの建物をはじめとした建築物が、公園の広い敷地の向こうに建っている風景は、古代から中世、近世にわたって地域や国全体の政治経済の中心地のひとつとして位置づけられてきた歴史的な史実の持つ凄みともあいまって、壮大な物語を感じさせます。周りを囲む建物の大きさが、この空間の広さを逆に強調しているようにも見えます。
公園の南、中高層のマンションや業務ビルなどが立ち並ぶ一角を経て玉造二丁目の交差点を南に折れて上町台地へと至る道筋を歩みます。周辺は中心業務地区の近傍にありながらも、穏やかさを感じさせる住商混在地域となっています。歩道の一部は「歴史の散歩道」として整備されているようでした。上町台地周辺には、難波宮跡公園のある「法円坂」をはじめ、「清水谷町」や「筆ヶ崎町」、「細工谷」、「松ヶ鼻町」など、地形の高まりや低い土地へ突き出した地形、あるいは丘陵に食い込むような谷間の地形などを想起させる地名が多くあります。その中にあって「空堀町」という地名に目が留まりました。調べてみますと、この地名は秀吉時代の大阪城を取り囲んでいた惣構(そうがまえ)堀のひとつ、南惣構堀が存在したことを今に伝える地名であるようです。空堀町から西へ、空清町、上本町(西)三丁目、谷町七丁目と続く空堀通りの南に沿って、現在でも低くなっている土地があり、堀の痕跡を跡付けることができるのだそうです。大阪冬の陣の際も、この南惣構堀は徳川方にとって難所として立ちはだかったといわれます。大阪冬の陣の和睦条件としてこの堀は埋め立てられました。上本町三丁目交差点に出ますと、空堀通りは「空堀ど〜り商店街」となって西へ続く様子が見て取れました。 上町台地の平坦部に近い位置を南北に貫く上町筋を南へ歩き、近鉄のターミナル駅である上本町駅周辺の商業集積を概観しながら千日前通を西へ、上町台地の坂道を下りるように進んで、生国魂神社下の下寺町交差点まで進みました。交差点に架けられた歩道橋からは、東に阪神高速の高津入口のスロープを介して展開する千日前通の動脈と両側を埋め尽くす中高層の建築物とが緩やかに台地を上る風景が、西に千日前通上を覆うように進む阪神高速とその下を横切るもうひとつの高速道路とが圧倒的な存在感を見せる都市景観とがそれぞれ展開していました。マンションや飲食店などが入るビルなどに囲まれた急坂を上りますと、生国魂(いくたま)神社の境内へといざなわれました。生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)を祭神とし、難波大社とも呼ばれる神社は、都市的な建築物が押し寄せる周辺地域にしっとりと佇んでいました。神社に東接して公園も整備されていまして、周辺地域の人々にとって憩いの場所ともなっていることでしょう。この神社より南の上町台地上は、寺院が多く立地する寺町となっていることは、既に拙稿「夕陽丘周辺を歩く」にてお話したとおりです。大正区散策で幕を開けたこの日の大阪フィールドワークも、生国魂神社に至る頃には午後4時過ぎとなっていまして、夕刻迫る時間となっていました。ここから天王寺まで、夕陽丘の雰囲気と谷町筋沿線の現代的な都市景観とを確認しながら歩いて、2006年の大阪フィールドワークは終了しました。 <お断わり> 取材に使用したデジタルカメラが現地にて突如調子が悪くなってしまい、一部写真画像がやや不鮮明となっています。ご了承願います。 |
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