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大阪ストーリーズ
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#12 堺市街地をめぐる(前編) 〜自由交易都市の面影〜 大和川を渡りきりますと、紀州街道筋の道路は堤防上を行く道路に一旦丁字路の形で突き当たります。同じく大和川を渡って東へ大きくカーブしてきた阪神高速の下へ回りこむように、堤防上の道路は西にカーブしながら堤防下に駆け下りて、再び道路は街道筋を一路南へ、堺市街地を目指します。紀州街道筋は綾ノ町電停を過ぎて大通りへと変貌し、阪堺線が再び合流してきます。綾ノ町駅周辺の市街地は大阪夏の陣後に焼け野原になって以後再建された堺の町並みの姿を今に伝える事物が点在していまして、鉄砲の生産地としての堺における江戸期の鉄砲鍛冶屋敷の姿を残す「鉄砲鍛冶屋敷」や、江戸時代前期から存続する町屋建築としては全国的にも稀有な例として国の重要文化財の指定を受ける「山口家住宅」などが、昔ながらの雰囲気を残しながらも現代的な市街地となっている町並みの中に残されています。中央に路面電車を走らせ、両側に3車線を擁しながら、さらに両端にたっぷりとした道幅の歩道もある大通り-大道筋(だいどうすじ)-の姿を、阪堺電車の車窓から概観しました。 綾ノ町駅から大小路駅まで路面電車を利用し、下車後徒歩で堺駅へと進みます。駅名にもなっている大小路(おおしょうじ)は、ケヤキ並木の美しい現代的な雰囲気を感じさせる街路です。大小路は、自治都市として急成長した堺の町を東西に貫く道路で、明治維新直後に付け替え後の大和川のラインに取って代わる前は、摂津国と和泉国との国境を形成していたのだそうです。堺東駅の東側にある「三国ヶ丘」の地名も、堺の地において摂津、河内、和泉の国境が交わっていたことにちなむものであり、「堺」の名もこれらの国の境界上であることを示すものであるようです。国境の道は、現在の堺の町のシンボルロードとして、堺東駅と堺駅とを連絡しています。
自治都市・堺を象徴する事物のひとつに、環濠の存在があります。室町時代後半から江戸時代初期にかけて貿易都市として巨万の富を築いた堺の町は、自身を取り囲むように壮大な土塁を備えた環濠をめぐらしていました。大小路は、堺駅のロータリーへと至る手前、クリーク状の水路を渡ります。北側は「内川」、南西から南の部分は「土居川」と呼ばれるこの水路は、かつての環濠の「よすが」を今に伝えているものです。現在は埋め立てられて阪神高速のルートとなっている土居川の東側を含め、この土居川と内川によって囲まれる範囲は、江戸時代に再町割された堺の市街地の広がりにほぼ対応します。土居川や内川はその際に作り直された堀で(オリジナルの堀は豊臣秀吉の命で埋められている)、自治都市・堺を取り巻いていた環濠はそれらよりも内側に建設されていたことが、発掘調査により判明しているのだそうです。自治都市時代との直接のつながりは無いようですが、土居川と内川の存在は、自治都市・堺の歴史性を濃厚に刻んだ文化的価値の高い景観として近年は再評価されていまして、浄化への取り組みや各種イベントの開催などが実行されているようです。 堺駅の駅舎内に設置されている観光案内所でレンタサイクルを借り、旧堺港方面へと自転車を走らせました。貿易都市・堺の原動力となってきた堺の港は、1704(元禄17)年に実施された大和川の付け替え以降、港内に堆積する土砂が増えたことにより港湾機能が急激に衰微する結果となりました。現代の堺旧港は、ヨットハーバーのある穏やかなウォーターフロントとしての景観がたいへん美しい印象です。2000(平成12)年に市制110周年事業として、1903(明治36)年に第5回内国勧業博覧会の際に設置されたものを再建した龍女神像や、当初の場所に現存する日本最古の木造様式燈台である旧堺燈台(1877(明治10)年建造、1968(昭和43)年廃灯;国指定史跡)などもこののびやかな旧堺港の雰囲気を盛り上げています。
旧堺港からは、「フェニックス通り」と呼ばれる国道26号線を東へ進み、千利休屋敷跡を見学した後、大道筋を北へ戻りました。ザビエル公園や、綾ノ町駅から路面電車に乗ったため詳細に見ることができていなかった山口家住宅などの史跡を巡りながら、大道筋沿線のゆったりとした都市景観を堪能しました。大道筋は、幅50メートルもの大路として、今日の堺市街地の中心を颯爽と貫いています。かつての環濠都市や、江戸期以降の町人町としての歴史をつないできた堺の町は、高度経済成長や大都市圏内の都市化などの新たなエネルギーを生み出し続けながら成長してきました。大道筋沿線の市街地は、躍動感を感じさせながらも、空が広く、町並みはどこか丸みを帯びている印象です。そんな町のおおらかさが、堺の魅力なのかもしれません。 大道筋は、御陵前交差点に至り、南の終点となります。土居川沿いの御陵通りを越えますと、紀州街道筋は再び一方通行の狭い路地となります。町並みは穏やかさを取り戻して、周囲は道路の両側に町屋建築が点在する住宅地域となります。堺市街地にあって一大メインストリートとしての“格”があったという紀州街道筋も、周囲の幹線道路が拡幅される中で相対的に住宅地域としての面がより強調されて見えてしまいます。しかしながら、このことは住宅地内の何気ない路地が雄大な歴史を背負っているということでもあり、そのヒューマンスケールの道路の情景の中にも、この地ならではの“すごみ”が隠されているように感じられました。
穏やかな町並みの中に船待神社の小ぢんまりとしたお社が鎮座していました。境内の説明表示によりますと、この神社は古来塩穴(しおあな)天神と称し塩穴郷にあり、菅原道真が九州大宰府に流される途中に船を待つ間に祖先に当る天穂日命を祀るこの祠に参拝したと伝えられており、後に船待天神社と改称され当地に移されたということであるようです。遥かなる事跡を物語る神社は、移りゆく町並みとともに時を刻みながら、どのように地域を見つめてきたのでしょうか。 ここで一度紀州街道筋より別れ、御陵前交差点の示す「御陵」、すなわち仁徳天皇陵方面へと進みました。 -堺市街地をめぐる 後編 へ続きます- |
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