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大阪ストーリーズ
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#13 堺市街地をめぐる(後編) 〜政令指定都市・堺のすがた〜 御陵前交差点に戻り御陵通りを東へ、堀のような土居川沿いを進みます。程なくして堺市街地随一の大寺・南宗寺(なんしゅうじ)の境内地が見えてきます。1557(弘治3)年三好長慶により建立され大徳寺第90世大林宗套を開山として落成したという南宗寺は、大阪夏の陣で消失後、1619(元和5)年に沢庵和尚により再建されたものであるのだそうです。御陵通りは東南東へゆるかに続いて、国道26号線の高架下をくぐり、現代的な都市近郊地域然とした風景の中を進んでいきます。 道幅は相変わらず広くて、幹線道路の広大さと、一歩路地に踏み入ったときの道の狭さとのコントラストがいっそう強烈に印象づけられます。こうした道幅の広狭は多くの大都市において一般的に認められるのでしょうけれど、これまで紀州街道筋を通ってきて感じてきた歴史性や町の開放感などがあいまって、なにかこのことが堺の町の特徴のひとつとしてたいへん意味のあるものではないかとも感じられてまいります。
道はやがて緩やかな上りとなり、片側二車線の道路も両側二車線の幅へと狭まって、緑に溢れた穏やかな色彩のエリアへと入っていきます。やがて鮮やかな木々に囲まれた堀沿いに松並木が続く景観となり、仁徳天皇陵の南側に至ったことを実感します。古墳と道路を挟んで反対側(南側)は、日本の歴史公園100選にも選ばれた大仙公園のたおやかな緑が輝きます。堺市街地よりは比高にしておよそ5メートル前後は高い丘陵状のエリアには、仁徳天皇陵をはじめ数多くの古墳が点在しています。ここは大阪市街地における上町台地の延長上に位置づけられる地形的な高まりであろうと思います。現在では都市近郊の住宅地域となった百舌鳥エリアも、古の時代は穏やかにたゆたう大阪湾の海原を望む絶好のロケーションであったのでしょう。 堀沿いを自転車を進めていきますと、古墳の南側に参拝所があり、そこから静かに墳丘をもたげる古墳の姿が確認できました。墳丘部分の全長486メートル、前方部の幅305メートル、総面積約46万4000平方メートルという日本一の規模の古墳の、堂々としながらも、その佇まいは神秘的な空気に包まれているように感じられました。古墳を周回する遊歩道に沿って古墳の東側に回りこみますと、遊歩道の東はすぐに住宅地となっていました。
三国ヶ丘駅付近から古墳付近に接してくる国道310号線を経て国道の北側に進み、南海高野線を跨線橋で越えて、堺市街地における一大ターミナルである堺東駅方面へと自転車を進ませました。このルートはかつての西高野街道筋にあたります。西高野街道は、堺から紀州の霊場・高野山に向かう道筋で、高野詣でが盛んだった平安末期鎌倉初期にかけては船で堺に上陸した西国の人々で賑わい、物資輸送にも盛んに利用された来歴を持つ道です。この西高野街道からは、榎元町四丁と三丁の境界付近で竹内街道が分岐します。竹内街道はその名が示すとおり、竹内峠越えで堺と大和とを結ぶ要路でした。古代は丹比(たじひ)道と呼ばれ沿道には渡来人ゆかりの地も多く、大陸から仏教文化か伝えられたのもこのルートであるといいます。遣隋使もこの街道筋を通って住吉津から大陸へ船出をしたのだそうです。現代では穏やかな住宅地の中の、何の変哲も無い細道である両街道が、その道筋をほぼそのままに現代に息づいていることは、壮大な時の流れを感じさせるとともに、堺をはじめとした畿内地域の懐の深さを想起させます。 西高野街道筋を伝える道筋を西へ進み、南海高野線の鉄路を再び踏切で越えて、周辺の景観は堺東駅前の繁華街へと変化していきます。堺市役所の高層ビルと商業施設「ジョルノ」の間を抜けますと、堺東駅の駅前の商業地域は目の前です。コンパクトながらもペデストリアンデッキやバスターミナルを備え、アーケードが連なる商業ビルやデパート、アーケードぢょ雨天外などが高密度に連続して、そこは堺市の中心駅たる雰囲気を備えていました。しかしながら、都市的な視点に立ちますと、いわゆる大都市の玄関口としての機能性や中枢性としての視点に立てば、堺東はこの規模の都市のエントランスとしては、ややスケールの小さいほうの部類に属する駅前かもしれません。とはいえ、これまで歩いてきた道筋を振り返り、境の市街地が持つやわらかな面影や、町並みが醸しだすゆったりとした空気感を考え合わせてみますと、堺東駅前くらいの規模のほうがこの町のスタイルにマッチしているのかもしれません。現代都市が共通して歩もうとする高密度化や高層化は、時に町並みを輝かせ、より洗練されたものへと研ぎ澄まさせます。堺の町はそのベクトルをただ突き進もうとしているのではなくて、そうした現代性のよさを十分に踏まえながらも、地域の歩んできたテイストをうまくミックスさせながら、より多様で、フレキシブルな表情を希求しているように見えます。今後もそうあってほしいとも思います。
堺市役所の屋上ロビーから、堺の町並みを俯瞰しました。北へ目を向けますと、堺東駅の商業街から彼方の大阪都心のビル街までがほぼ隙間なく建築物によって埋め尽くされて、現代大都市圏の様相を如実に見せつけます。西方は堺の旧市街や湾岸の産業地域を介して大阪湾のなめらかな水面が展開し、その向こうには神戸や淡路島の山並みが驚くほど間近に眺望できます。東側は反正天皇陵の緑を介して屹立する堺市駅前のベルマージュ堺のツインタワーの彼方、穏やかな近郊住宅地域を宿す大地を見守るようになだらかな金剛山地の山並みが重なります。そして、南東方向にはどっしりと横たわるように仁徳天皇陵の緑が町並みの中に鎮座して、古墳をかすめるように南海線の鉄路が紀伊山中の霊場へ向かって進んでいきます。その後浜寺公園を経由しながら旧紀州街道筋を御陵前交差点まで北上するなどのサイクリングを経て、堺東駅前の観光案内所でレンタサイクルを返還し、この日のフィールドワークを終えました。 自治都市として栄華を欲しいままにしていた堺は、宣教師ルイス・フロイスによって「東洋のベニス」と形容されました。歴史の中に燦然たる残照を焼き付けた堺の都市基盤は多くの富を生み、今日の堺の市街地の基礎を気づく原動力となりました。近代化や現代の都市化の中で堺の市街地はその様相を変化させながらも、こうした揺ぎ無い歴史的なエピソードに満ちた雰囲気は、豊かな町並みの中に静かに、鮮やかに息づいているように感じられます。 堺市は2006年4月1日、長年の悲願であった政令指定都市への移行を果たしました。このことは、まちづくりなど地域をより豊かに活性化させていく取り組みが、市レベルでより主体的に行いやすくなったことを意味します。かけがえの無い歩みを幾層も重ねてきた町並みのたおやかさをそのままに、より魅力的で親しみやすい堺へ。この町は着実にその方向へ歩みを進めているように思われました。 |
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