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そして、近江路へ・・・
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#7 近江八幡を歩く 〜近江商人とヴォーリズの足跡〜 2008年11月22日。この日は早朝の石山寺訪問から野路、草津宿を巡っていました。午後1時過ぎに再びJR琵琶湖線に乗って近江八幡へ到着しました。JRの駅は中心市街地からやや離れた位置にあるためか、駅前の市街地は新しい現代的な印象で、京阪神圏から距離があることもあり草津と比べてもまちの厚みがやや小さいように感じられます。駅前から市街地へ向かうバスはまっすぐには進まず、市役所前や総合医療センター前を経由しながら進んできます。駅前から続くバス通りは、そのまま碁盤目状を呈する市街地の街路の一つ、小幡町通りへとつながっていきます。小幡町資料館前のバス停で下車し、商家町としての風情を残す近江八幡の町を散策します。
近江八幡は、1585(天正13)年に豊臣秀次がおじの秀吉の命により鶴翼山(かくよくざん、一般には「八幡山」の名で知られる)に八幡山城を築いた際、城下町として整備された町場を起源としています。八幡山城の廃城後も、琵琶湖へと続く八幡堀の水運を生かしてまちは成長し、近江商人のふるさとのひとつとして、今日に続く町並みが整えられてきました。小幡の信号で交差する通りは旧朝鮮人街道(京街道)の一部となります。中山道の鳥居本宿から彦根、安土、八幡等を経て野洲にて再び合流する道筋は、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康が上洛時に通ったことに因む吉例の道として、将軍の上洛時のルートとすることが慣例となっていたようです。そんな縁起の良い道を、朝鮮からの慶賀使節団である朝鮮通信使には使わせていたようで、「朝鮮人街道」の名の由来となっているものです。 朝鮮人街道筋を北東に入り、最初の辻は「八幡伝統的建造物群保存地区」の一角を占める新町通り界隈となります。市立資料館を中心に、国の重要文化財である旧西川家住宅、旧朝鮮人街道を挟んで向かいの旧伴家住宅などが点在する、商家町としての近江八幡の美しさが凝縮されたような一角です。通りに沿って切妻造桟瓦葺き、平入りの中2階建ての町屋が連続していて、通りの向こうに見通せる八幡山が借景のようになって、道路に面した庭に植栽された「見越しの松」の樹冠とつながった実に奥ゆかしい景観が完成しています。格子や出格子、虫籠窓、犬矢来をなどが配された町屋のたたずまいは、街路がアスファルトで舗装されているのを除けば本当に往時のままのような風情で、月並みな言い方ながら近世にタイムスリップしてしまったかのような錯覚にさえ誘われます。
新町通りの街並みを味わいながら八幡山方面へ進むと、近江八幡をシンボライズする景観のひとつである八幡堀界隈へと到達します。階段状の雁木が往時をしのばせる八幡堀は、柳の枝がさわやかに風にそよぎ、水面に秋空をなめらかに映す、穏やかな情景の中にありました。豊臣秀次は、八幡山城の防衛上の目的に加え、八幡堀に運河としての役割を持たせ、琵琶湖を航行する荷船のすべてを八幡に寄港させたといいます。以降、八幡の成長の原動力となり多くの近江商人を輩出する牽引力となった八幡堀は、高度経済成長期を迎えて汚染が進み、埋め立ても検討されたといいます。現在の豊かな歴史的景観を取り戻すにあたり、「八幡堀を埋めた瞬間から後悔が始まる」という合言葉のもとに清掃活動に尽力した多くの市民の存在があったとのことです。 八幡堀沿いの遊歩道を進み、1877(明治10)年に「八幡東学校」として建築され現在は観光案内所として使用されている擬洋風建築「白雲館」の前より、八幡山方面へと向かいました。石垣で整えられた八幡堀は周囲に町屋や土蔵が連続的に配置されて、商人町の歴史を存分に伝えています。古くから近江商人の信仰を集めてきた日牟禮(ひむれ)八幡宮の結構を確かめた後、八幡山ロープウェイで山頂へ向かいました。晩秋の八幡山は所々で紅葉した木々が美しくて、さわやかな空と風に包まれていましたね。
八幡山の頂上からは360度の眺望が広がります。近江を代表する琵琶湖のなめらかな湖面はやわらかな晩秋の空を映して鏡のようにたおやかな姿を見せています。そして眼下には畿内に接し古来より開かれてきた近江の大地が豊かな表情を見せています。茫漠とした平地は水田が開かれて、街村的な集落がその中に点在しています。その集落一つひとつは、これまで歩いてきた坂本や唐崎、草津周辺のなどで目にしたとおり、多くの昔懐かしい建物や旧道などがおそらく残っていて、地域のこれまでを静かに語っているのではないか、そんな想像がはたらきました。 それらの琵琶湖や平地を含む近江の大地は、東の鈴鹿山脈、南の水口丘陵あたりの丘、比叡山から比良山系の山々、北から東にかけては野坂山地から伊吹山地にかけての山々といった峰々にゆるやかに抱かれて、やさしさや力強さに満ちた地域の姿に重なりました。そして、足元には近江八幡の碁盤目状の街並みが展開しています。琵琶湖に開かれた商人の町はその基盤を生かして近代的な都市へと成長しました。眼下の現代の八幡の街並みは遠方の山々まで雄々しく連続していて、近江の大地の上で一際輝いて見えるようでした。
八幡山を降り、白雲館前に戻って八幡堀に別れを告げ、市街地の東にある「旧ヴォーリズ住宅」へ向かいました。ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1905(明治38)年にキリスト教の伝教を目的に英語教師として八幡に赴任したアメリカ人です。彼は日本各地で多くの西洋建築の設計に携わり、建築のほかにも医療、学校教育、出版等多方面にわたる活躍を見せ、近江八幡市の名誉市民第一号ともなっている人物です。旧ヴォーリズ住宅は、その名のとおりヴォーリズが自ら設計し後半生を過ごしたかつての居宅で、下見板張りの質素な外見ながらも暖炉の煙突がモダンな雰囲気を感じさせる建物です。付近にはやはりヴォーリズが創立者である近江兄弟社学園の教育会館・ハイド記念館があって、赤瓦屋根の簡素な美しさを見せています。 八幡伝統的建造物群保存地区の構成要素のひとつで、新町通りと並び昔ながらの商家の町並みが印象的な永原町通りを一瞥し、旧八幡郵便局、アンドリュース記念館などのヴォーリズ建築を確かめながら、夕闇の迫る八幡の町歩きを楽しみました。小幡町通りをさらに東に入り、八幡小学校の西側一帯には、ヴォーリズが大正期に手掛けた洋風の建築物が立ち並ぶ一角があり、一般に「池田町洋風住宅街」と呼ばれています。アメリカ開拓時代を象徴するという「コロニアルスタイル」と呼ばれる建築様式で統一された住宅街は、周囲の街並みともよく調和して、この町と人々を愛した故人の人柄を彷彿とさせます。 この日は早朝の石山寺訪問に始まり、草津の東海道筋、そして商家の家並の中にヴォーリズ建築が深いアクセントして輝きを見せる近江八幡と、近江路の変化に富んだ地域の只中に身を委ねることとなり、近江の大地の懐の深さに、心を大きく揺さぶられる行程となりました。 |
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