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そして、近江路へ・・・
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#8 彦根・市街地散歩 〜彦根城を中心に成長したまち〜 2009年12月6日、前日の京都フィールドワークを終え(詳細は、シリーズ京都を歩く内、第9集「山裾の寺社をめぐる」にまとめています)、投宿していた大津市を出発し、午前9時過ぎに彦根駅へと到着しました。2007年末より注目して訪問を続けてきた滋賀県域のフィールドワークを実施すべく、前年の草津・近江八幡に続き、滋賀県東部(湖東地域と呼びます)の中心都市・彦根を訪れました。彦根への車窓からは、愛知川などの河川がつくる広大な平野が望まれて、、琵琶湖に向かって一面の美田が広がっていました。新幹線からも観ることのできる、滋賀県内の美しい風景ですね。琵琶湖と周辺に展開する豊かな田園風景、そして背後にゆったりと聳える優しい容貌の峰々が織り成す景色は近江の地でしか成し得ない、かけがえのない財産であると思います。京阪神からの新快速も直通する彦根駅から市街地散策をスタートさせます。
彦根は周知のとおり、井伊氏が藩主を務めた彦根藩の所在地として発達したまちです。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで戦功のあった後の初代藩主井伊直政は、石田光成の居城であった佐和山城を与えられ18万石の大名となりました。直政は1602年に病没しますが、子らがその遺志を継ぎ、20年の歳月をかけて彦根山に城郭を完成させました。以後、滋賀県東部における中心都市としての中心性を維持し、今日に至ります。中山道と北国街道が分岐する位置にある彦根は戦略的にも物流的にも重要な位置を占めていて、家康も譜代筆頭大名であった井伊氏に与えて西への睨みとしたと言われます。滋賀県内でもやや西に偏る大津に対し、地方気象台や国立大学といった県域を代表する施設が一部立地しており、県域レベルの機能を一部保管する位置にあることも特徴的です。 彦根駅を出て西へ、駅前お城通りを進みます。県東部の中心都市であることもあり、人口規模の割には多くの商店街が発達していて、業務系のビルもまとまっていて、前述の中心性の高さが垣間見られました。JR琵琶湖線(東海道本線の滋賀県内部分を中心とした愛称)の利便性向上による人口移転も影響しているのかもしれません。駅前から10分ほどで市役所前を通り、護国神社前交差点へ。鉤の手状に左折、右折すると彦根城址は目の前です。「いろは松」と呼ばれる松並木の向こう、中堀に開いていた4つの城への入口の一つ、「佐和口」の多聞櫓が建てられています。中堀も穏やかな表情を見せていて、城址らしい堂々たる景観を今に伝えています。入口は入ってすぐに直角に曲げられており、城郭としての守りを重視した構造が見て取れます。
現在彦根城址を取り囲む堀は2つですが、これらはそれぞれ内堀と中堀であり、それらの外側にはさらに外堀があって、戦前まで残存していたそうです。護国神社前交差点から護国神社境内へ至る参道に橋が架けられ、訪問時は水のなかった堀があり、これが現在は埋め立てられた外堀の一部であるようです。その護国神社の北、中堀に隣接して井伊直弼が青年期を過ごした「埋木舎(うもれぎのや)」)が建てられています。 佐和口から城内を進み、近世城郭に残る大規模なものとしては例がないという馬屋の建物を一瞥しながら、内堀を越えて天守方面へと進みました。彦根城は彦根山の異名金亀山に因んで金亀城(こんきじょう)とも呼ばれます。近世初頭の城郭らしく守りへの配慮も行き届いていて、表門を入っても直接天守へは接続していません。天秤櫓の下(堀切と呼ばれる人工的に山を掘削した空堀部分)をいったん通って鐘の丸と呼ばれる部分へと石段を上り、先ほど通過した堀切の直上に架けられた橋を渡って、本丸へと続く天秤櫓前へと至る構造になっています。したがって、空彫りに侵入した敵へはその上から攻撃をすることができますし、いざとなれば橋を落とすことにより天守方面へは直接進むことができない仕組みになっているわけです。橋の先にある天秤櫓は、左右均整の取れた形状からその名で呼ばれているようで、築城後に改修が行われた結果、櫓の西と東で石積みの工法が異なることでも知られています。
多くの石段を上り、数々の櫓を通過して最後の太鼓門櫓をくぐり、やっとのことで国宝に指定される天守へと到着しました。彦根城はその建設にあたり、天守は大津城のものを、天秤櫓は長浜城のものをといったように、周辺の建造物を移築して建設されたと伝承されているようです。その天守からは滋賀県のシンボルたる琵琶湖のたおやかな水面を間近に眺められました。多景島や沖の島、竹生島(ちくぶじま)といった島々も観ることができまして、遥か湖西から湖北地方へ連なる比良山地や野坂山地、丹波高地方面のゆるやかな山並みに抱かれているように思えました。 陸側に目を転じますと、眼下に見える陸上競技場などのある一帯は松原内湖と呼ばれた琵琶湖の内湾が広がっており、城はさながら水に浮かぶような立地でありました。彼方には滋賀県最高峰の伊吹山へ連なる山々がどっしりとした風貌を見せています。東から南は堀の向こう、鈴鹿山地へ続く丘陵に挟まれるように彦根市街地が現代的な町並みを形成して、西側の遠方に見える荒神山までの平坦地に広がっていました。八幡山や安土城、彦根城など、西国と東国を結ぶ近江の地は丘陵上に多くの城郭が建てられ、その多くは時勢の波の中で荒廃する波乱をたどりました。琵琶湖の水運や豊穣の大地は多くの富を生み、近江商人の活躍の場ともなりました。こうした歴史的な背景はこの近江の地にかけがえのない風土をつくり、今につながる多様な美しい景観を形成しました。その中心には琵琶湖と、それを取り巻く大地がありました。
天守を降り、北側の黒門へと下る山道を経て城跡の東側に出て、玄宮園(げんきゅうえん)の庭園から木々に覆われた山上に聳える天守の姿を見上げました。そこから城址の南を再び横切って西へ進み、夢京橋キャッスルロードや四番町スクエアなど観光客向けに整えられた一角を確認、彦根駅へと戻りました。初冬の金亀山周辺はカエデなどの木々も多くは葉を落としていたものの、冬桜が花を咲かせている場所もあって、冬の日差しの下、またたくような落ち着いた輝きを届けてくれていました。 我が国に残存する天守のうち、国宝に指定される4天守の1つとしてあまりに著名な彦根城は、近世初めのまだ戦国期が色濃く残る時代における建造物の特徴を今に伝えながらも、一方においてその後泰平の時代を地域の象徴として生きたおおらかさをもまた濃厚に感じさせます。彦根城を中心とした今般の彷徨は、そうした地域への憧憬と安寧への希望とを心に刻む道のりであったように思います。 |
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