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そして、近江路へ・・・
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#14 旧東海道水口宿の町並み 〜新旧の城下町を反映した街割〜 2020年2月23日、信楽の町並みを散策した私は、その後甲賀市内を移動して、同市内において主要な町場の一つを形成している水口へと入りました。地域を貫流する野洲川に程近い甲賀市役所に車を止めて、水口の旧市街へを歩を進めました。市役所のほか、文化ホールや裁判所などの公共施設が集積する一角を過ぎ、滋賀県東部の を縦貫するローカル線・近江鉄道線の鉄路を越えますと、藩政期に藩庁が置かれた水口城跡へ行き着きました。水堀の残る城跡には、移築されていた本丸乾矢倉再移築し整備した資料館があって、往時を偲ばせていました。
水口の町場は水口場を中心とした西側の武家地と、駅の名前にも採られている石橋を境に東側に広がる旧東海道の宿場町とに分かれています。町中に設置された看板を頼りに、西側の旧武家地をまずは散策します。旧東海道は石橋を渡り武家地のエリアに入ると北側に迂回するように、城下町の北縁を進んでいきます。現代の町並みに溶け込む中にも、旧武家屋敷の長屋門が複数残されていまして、地域の歴史をとどめていました。五十鈴神社の境内地は街道筋にあった一里塚跡を含んでいまして、江戸時代における最大の幹線道路であった東海道の規模を感じさせました。真徳寺の表門もまた、武家屋敷の長屋門を近大に移築したものであることが門前にて説明されていました。土蔵や町屋造の建物も随所に存在していまして、水口の町の現在に深みを与えていました。 時折クランク状に折れながら進む旧街道筋を辿りながら、東側の宿場町を反映したエリアへと歩を進めます。街道筋が避ける水口城を中心とした地区は、本丸跡を敷地とする水口高校のほか、城内に藩によって創建された由緒を持つ藤栄神社などが歴史を物語ります。そうした史跡なども一瞥し歩きますと、町中の家々も時代を経た重厚さを濃密に宿すファサードを整えていまして、畿内における地域の豊かな文化的背景を象徴しているようにも思えてきます。近江鉄道の踏切を越えると、すぐに「京口」とも呼ばれた石橋に到達します。現在では市道がまたぐありふれた古い石橋といった風情の橋ですが、橋から東の宿場町を見通しますと、古い町並みがやわらかな佇まいを見せる路傍に沿ってしなやかに目に入ってきまして、戦国期から藩政期へ、複合的に存立していたこの町の出自をまさに目の当たりにすることができます。
東側の宿場町は石橋の前から三筋に分かれた道路に沿って広がります。その3つの道路の交点(三筋の辻)には曳山を模したからくり時計が設置されていて、それは地域のシンボル的な存在となっているようでした。この町場は、江戸時代に入って東海道の宿駅となる前は町の北東に聳える古城山の上に築城された水口岡山常城の城下町でした。畿内と東海道とをつなぐ要衝にある水口の町は、戦略上も重要な位置を占めており、戦国期の町は次第に宿駅としての機能も帯びるようになり、やがて江戸時代になって正式に主要幹線道路の宿場町となりました。三筋の町を歩きますと、平入の長い間口の庇状の屋根を持つ商家や、寄棟造の町屋、屋根が兜造りのような形状の建物など、多様な家並みがかつての宿場町を彩っていまして、往時の喧噪をそれらは物語っていました。 町場の北に面する水口小学校内には、滋賀県内において多くの近代建築を残したヴォーリズの設計による旧水口図書館の建物が穏やかな表情を見せていました。近世から近代へ、その反映をつないだ史実を、その瀟洒な洋風建築は静かに語りかけているかのようでした。 |
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