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そして、近江路へ・・・
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#15 日野の古い家並みをゆく 〜近江日野商人を生んだ風景〜 2020年2月23日、信楽から水口へ、滋賀県東南部の都邑を歩いてきた私は、水口の北に位置する蒲生郡日野町の市街地へと進みました。訪れたこの日は、「日野ひなまつり紀行」というイベントが開催中で、市街地に面する商家や店舗の多くでひな人形がかざされていまして、寒風吹きすさぶ午後の青空の下、昔語りの町並みはちょっとした華やぎのなかにありました。
この町のことを語る上で、蒲生氏の存在を指摘しないわけにはいきません。郡名にもなっている蒲生氏は、この日野の地に本拠を置いて城下町を築き、それが町場としての礎となりました。現在の市街地は、南を流れる日野川がつくる低地より一段上、東西に帯状に連なる台地上に展開しています。大窪交差点から東へ、大聖寺の西の丁字路に架けてが町の中心で、その丁字路付近には藩政期には触書を掲示した高札が置かれた高札場であったことから、「札の辻」と呼ばれました。札の辻を中心に、瓦葺きの重厚な商家が軒を連ねています。通りに面して立派な楼門を擁する大聖寺は関ヶ原合戦当時は小さなお堂であったものが、日野商人の信仰や財力に支えられて、次第に興隆していったものと伝わります。寺院の傍らには、仏の出現を意味する出世稲荷神社のお社も営まれています。 平入切妻造の町屋をベースとして、漆喰塗りの土蔵が重なる町並みは、この地から各地へと赴いて活躍した日野商人の足跡を今に伝える史跡であると感じます。そんな先人の歩みを伝える「日野まちかど感応館」をはじめ、札の辻の南にある「近江日野商人館」などで、その活動が全国的なものであったことを知ることもできました。そうした歴史的資産とも言える町屋のあちらこちらで、江戸時代に大きく発達した雛人形が個性豊かな表情を見せていたのが印象的でした。日野川のつくる低地に向かう境内を持つ信楽院(しんぎょういん)はこの地を治めてきた蒲生氏の菩提寺です。こちらの堂宇も門前に楼門を構えていて、それが多くの豊かな檀家に支えられてきたことを想起させました。日野川の旧河道を反映した田地に下りますと滝之宮神社の小さな社殿があって、その横の水路には豊富な水が渾々と流れていました。
町並みをさらに東へ歩きますと、次第には家並みはまばらとなり、東の彼方に広がる鈴鹿山脈の山並みが間近に見えてきます。町の東郊には馬見岡綿向(うまみおかわたむき)神社の広大な神域へと至ります。境内には本殿や拝殿をはじめ、石造の太鼓橋や神楽殿など、日野商人の寄進によって整えられた多くの建造物が存在しています。地域の産土神として、蒲生氏の氏神として多くの信仰を集める当社では、春季例大祭が「日野祭」とも称されて、絢爛に挙行されています。領主の蒲生氏は1590(天正18)年に会津黒川城主に移封されます。その際、故郷日野城の近くにあった若松の森に因み、会津黒川を会津若松と改めたといいます。その若松の森は、この綿向神社参道を覆う森であったといわれます。戦国期における武将の異動の足跡をも軽やかに包摂しながら、現代の日野の町並みは、のびのびと早春のやわらかな日射しに照らされていました。 |
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