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りょうもうWalker
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#7 織都・桐生 〜“ものづくり両毛”のあけぼの〜 桐生は日本の機所(はたどころ)。群馬県内の名所・旧跡・ゆかりの人物などを詠みこんだ「上毛かるた」には、桐生はわが国でも有数の織物の産地として紹介されています。桐生周辺の農村では、近世には既に農家の副業として、養蚕・製糸・織布を家内で一貫して行うことが生業となっていたようです。両毛地域や群馬県一帯は火山灰性の土壌が卓越し、農業には本来向かない土地が多く、そういった地域性が絹織物産業の基盤を作りあげた要因の1つであったといわれています。産業構造の変化や、外国との競争などによって絹織物業の営みは往時と比べますとだいぶ穏やかとなっています。近世から近代前半期にかけて一時代を築いた町の「凄み」が随所に残されている桐生の町は、その穏やかなときの流れを緩やかに受け止めながら、たおやかな姿を見せていたような気がいたします。
斬新なデザインの概観が印象的な市民文化会館(大ホールは「シルクホール」と呼ばれます)や市役所などの立地する一角から桐生市街地のフィールドワークをスタートさせます。市役所と市民文化会館の敷地に挟まれるように、織姫神社の小さなお社が佇みます。境内にはこの一角の歴史を刻んだ石碑があります。その碑文の冒頭を抜粋します。 富士紡績株式会社桐生工場の跡 この土地12万3千平方米は、元富士紡績株式会社桐生工場の敷地であった。明治20年11月、日本織物株式会社が創立され、全国に魁けて洋式機械を備え、水路2キロを開き、米国製タービン2基を据え付け、動力と自家発電とに供し、織姫繻子を始め新製品の増産をなし、本市産業文化振興の源泉となった。
近世以来の織物産業の基盤を生かしつつ、近代的な繊維産業へと飛躍を遂げつつあった桐生の歴史を見た思いでした。学園祭が華々しく開かれていた樹徳高校の西側を過ぎ、桐生郵便局の横を過ぎて、JR桐生駅の南口方面へ。区画整理の結果すっきりとした街区へと生まれ変わった道路に面して、旧模範工場・桐生撚糸合資会社事務所棟の洋風の建物が残されています。桐生駅南口一帯に広大な敷地を持った同工場の唯一の遺構として、また洋式建築としては群馬県でも最古の部類に入る稀少な文化財として、今日の近代的な町の一角に立ち、少なからぬエッセンスを与えていました。現在は桐生市の所有となっており、市指定重要文化財であるとともに、「桐生市近代化遺産絹撚記念館として、一般に開放されています。市文化財課の事務所も入居しており、「千客万来桐生まちなか地図」という美しいガイドマップをいただきました。町の見どころやお店の情報などがイラスト入りで分かりやすく盛り込まれた、桐生の町中散策には必携の地図です。 きれいな景観にクリアランスされた南口から、末広通り沿いのアーケードが懐かしい雰囲気をかもし出す北口へ。そのまま桐生市街地の西縁の山すそを辿る通称山手通りへと歩みます。上毛電鉄・西桐生駅の小ぢんまりとした駅舎を一瞥し、高校野球で全国制覇成し遂げた桐生第一高校の横を過ぎると、山の木々の緑が迫ってきます。うっすらと紅葉の始まった木々は晩秋の緩やかな日差しのもと、いっそう快く感じられます。市立北小学校に接する西宮神社の境内は、ケヤキやイチョウの木々に穏やかに包まれており、山手通りもその緑の天蓋の下、続いていきます。“関東一社”西宮神社は、隣接する村社美和神社の境内に勧請された神社で、11月19日・20日の例大祭は、「桐生えびす講」として多くの参詣客で賑わうのだそうです。関東一社、とはこの神社が、関東でただ一つの、摂津西宮神社からの直系分社であることからそう呼ばれます。2つのお社が古木の中に並ぶみずみずしい佇まいの境内は、桐生が岡公園へとつながっていきます。また、桐生の町を緩やかに俯瞰することができます。
森産業の向上の横を過ぎるあたりからは、桐生の絹織物産業の象徴的な存在である「のこぎり屋根の工場」がぽつりぽつりと見られるようになります。木造や石造、レンガ造りなど構造も様々な「のこぎり屋根」の工場は、北側の天窓からの柔らかい光が場内の手作業に適しており、また織機の音を拡散できることから、織物工場として明治〜昭和初期に数多く建設されました(桐生市ホームページより一部引用)。本町通りに入り、七五三で賑わう桐生天満宮の鳥居前から東へ入ると、のこぎり屋根の工場として現在でも操業している金谷レース工場の建物を見ることができます。この天満宮周辺は桐生でも最も多くのこぎり屋根の工場を認めることができる地区の1つとなっているようです。天満宮の東をなめらかに通過する県道を歩めば、程なくして群馬大学工学部のキャンパスです。群馬大学の学部の中で唯一前橋市外にあるキャンパスで、桐生がいかに上州における工業の集積地域であったかを偲ばせますね。群馬大学工学部は、その母体を桐生工業専門学校としており、さらにその前身は桐生高等染織学校でした。このかつての桐生高等染織学校の本館・講堂、正門及び守衛所(いずれも国登録有形文化財)がキャンパス内に現存しておりまして、学校創立(1915年;大正4年)の翌年に完成した建物の一部を、1973(昭和48)年に現在の場所に移し、「群馬大学工学部同窓記念会館」として利用しているものであるようです。ゴシック風のモダンなファサードは、桐生の往時の賑わいを今に伝えているかのようです。 桐生の繁栄ぶりがどのようなものであったかをを感じたいのであれば、桐生天満宮の鳥居前から南に続く本町通り沿いを歩いていただくとよいと思います。白壁の蔵造りの商家や、近代的なレンガ造りの建物、古い木壁が時代を感じさせる民家などが連続するエリアです。それらの建造物たちは、「古い町並み」としてレトロな雰囲気を醸し出すとともに、その重厚な容貌によって、同時に桐生が織物の町としてのエナジーの残り香を漂わせているように思いました。桐生では、昔名ながらの家並みを貴重な近代化遺産としてたくみに活用し、まちづくりに活かしていこうとする取り組みも盛んです。ギャラリーやまちづくりボランティアの活動拠点として利用されている建物も少なくありません。それらの中で最も知られているものの1つが、「桐生市有鄰館(ゆうりんかん)」です。これは、桐生の商業発展に大きく寄与した矢野本店の土蔵群を総称した施設で、ギャラリーやコンサートホールなどとして利用されています。訪れたこの日も、作品展の展示会場などとして使われていまして、多くの人々が施設で楽しいひと時を過ごしていらっしゃいました。
有鄰館あたりからは、風景は現代の桐生の町並みへと移り変わっていきます。金善ビルなどの高層建築物も認められるようになり、桐生駅前の末広通りと同じようなアーケードの商店街となります。桐生駅を起点として、都市の近代化が進み、街の中枢が南へスライドしていった歩みが、そこには端的に示されているようにも思われました。JR両毛線のガード下の手前には横浜銀行の支店があります。明治期、絹織物は日本の重要な輸出品目の1つでして、浜銀の存在からは、生産地桐生とその積出港横浜とのつながりが見て取れますね。ガードを挟んだ本町六丁目商店街周辺ではアーケードの下でフリーマーケットが開催されておりまして、個性豊かな商品が並べられていました。 1921(大正10)年3月1日、両毛地域では足利市(同年1月1日誕生)とともに最も早い時期に市制を施行し、両毛地域の近代化を牽引してきた桐生の町は、現在では構造的な人口流出に悩む中都市となっています。まちの賑わいを象徴していたアーケード街も、往時の喧騒を響かせることがなくなって久しいようです。しかしながら、まちの随所に点在する、重みのある歴史の色鮮やかな建造物群は確かに桐生の凄みを感じさせます。このような素晴らしい“都市らしい”景観は、両毛地域の他のどの都市においても実現し得なかった、かけがえのない遺産であると心より思いました。 |
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